王都での予期せぬ出会い①
翌朝、サイモンは朝から上機嫌で、鼻歌を歌いながら私を居間に連れてきた。
元帥は席に着いておらず、居間のソファに横になりながら、行儀悪く朝食のパンを齧っていた。
サイモンが私のクッションをはたきながら、頰を紅潮させて元帥に尋ねる。
「お館様、今日は何時ごろ王都に行かれるのですか? 僕も連れて行って頂けるのでしょう?」
「何時ごろになるかな……。少なくとも午前中いっぱいは、領内の工房で仕事をする予定なんだ」
(工房? 工房って何かしら……)
元帥のそばまで歩いていくと、彼の視線が動いて私の上に落ちる。
「おはよう、シフォン。お前も王都に一緒に行くぞ。お散歩も必要だろう」
「お散歩って、ワンちゃんみたいです!」
サイモンがテーブルクロスを直しながら、朗らかに笑う。
元帥は空いている方の左手で私を床から掬いあげ、自分の胸の上に乗せた。彼の上に腹這いになる格好になり、にわかに焦る。
「――あたたかいな。最高の毛布じゃないか」
固まる私をよそに、元帥とサイモンは話し続ける。
「僕、磁器工房の方も一緒に行きたいです」
「今日は窯には行かないぞ? 事務作業中心になる」
「あっ、それなら結構です。僕、じっとしていられないから……」
即答するサイモンに、元帥はおかしそうに笑った。それに合わせて元帥の胸が上下し、揺れのせいで無意識に爪を立てそうになるのを堪える。
元帥は笑いを収めると、真剣な表情に戻ってサイモンに言った。
「今年の初めに工房を買い取ったばかりだからな。今が大事な時期なんだ」
「磁器の大事な時期ですね!」と言うサイモンのダジャレを華麗にスルーし、元帥は天井を見上げてひとりごちた。
「軍人としての功ばかり求めていないで、そろそろ領地経営にも精を出さないといけないからな」
どうやら元帥は何か産業を始める気らしい。
磁器は東の国々で生産が盛んで、エーデルリヒトでも人気がある。陶器とは価格の上で明確に区別されており、高値で売買されるので、庶民の家庭にはほとんど置かれていない。
陶器と磁器は作り方も見た目も似ているが、材料が異なる。加えて一般的に磁器の方が薄くて軽い上に、丈夫だ。
元帥が私の背を撫でる。そうしてまるで自分自身に言い聞かせるように、言った。
「メルク公領の工房で作るティーカップを、いずれ王都の紅茶館でも使ってもらいたい。工房の名を大陸中に広めるのが、私の今の夢なんだ」
(夢ーー?)
それは軍人公爵にしては意外な夢だった。
侍女が持ってきた私用のトレイを受け取り、サイモンがクッションの前に置く。そうして尊敬を込めた口ぶりで、話し出した。
「お館様は、工房に行かれると一日中、窯の前で熱心に仕事なさってますもんね。新しいカップのためにいくつもの模様や、形を試行錯誤して焼き上げられて。窯の熱で汗だくになったお館様の背中は、とってもかっこいいです!」
弾けるような笑顔で解説してくれたサイモンを、元帥がやや煙たそうに手を振って止める。
「持ち上げても何もでないぞ、サイモン」
「そんなんじゃないです!」
可愛く拗ねるサイモンの様子をぼんやり見ながら、私はつい想像してしまった。
磁器工房の火を吹く窯の前で、額から垂れる汗を拭う元帥。それは確かに、かっこいいかもしれない。私が知らない元帥が、まだまだたくさんいるのだ。
(いいなぁ。そんな元帥を私も見てたい)
仰向けで私を見下ろす元帥の目を、じっと見上げる。爪を立てないように細心の注意を払っている前脚の肉球の下から、トクントクンと規則的な振動が伝わってくる。元帥の心臓の鼓動だ。
私は前脚の間に頭を下ろし、静かにその心臓の音に耳を傾けた。
紅茶館でかつて見た「怖いやたら綺麗な軍人」だった元帥が、同じ鼓動と体温を持つ、一人の人間なのだと妙に実感する。
元帥は右手に持っていたパンをちぎると、私に差し出した。
「お前も欲しいか?」
ゆっくりと顔を上げて、パクッとパンを頬張る。咀嚼を始めると元帥は目元を緩めた。
残りのパンを自分の口に放り込む元帥を見て、ドキンと胸が鳴る。
(なんだか、パンを元帥と半分こしたみたいだわ。こんなのって初めてだから、ドキドキしちゃう)
自分は猫なんだ、落ち着けと言い聞かせる。
元帥の胸の上はポカポカして気持ちが良い。
伸びきって彼の上に転がり、背中を優しく撫でてもらうのは、とても役得に思えた。猫でよかった、なんて不覚にも思ってしまう。
「なんてふわふわで可愛くて、無防備な顔なんだ」
元帥が笑いを含んだ声でそう言いつつ、私の顎の下を人差し指の背で撫でてくる。
(うぉお〜、これよ。これ。すっごく気持ちが良くて、脳内が薔薇色になるわ……)
永遠に撫でていてほしいくらい。
無意識に「ゴロゴロゴロゴロ」と喉が鳴ってしまう。
元帥は昼過ぎに帰宅すると約束通り、私と一緒に馬車に乗り込み、王都に向かった。
私のお世話係としてサイモンも同行していて、彼は馬車が動き始めると心配そうな顔で元帥に尋ねた。
「今日は工房にアルフォンソ様をお一人で残して、大丈夫なのですか?」
「あいつも仕事はきちんとこなすからな。フラフラ遊ばせておくより、何か役割を与えて任せる方がいい」
「工房の若い女の子たちに、ちょっかい出さないですかねぇ……」
元帥は左手で額を押さえた。
「勘弁してくれ。想像するだけで、疲れる……」
サイモンに釣られて、私まで苦笑いしてしまう。
馬車が草原に出ると、サイモンは何かを思い出したように、目を輝かせて私を見た。どこかウキウキとした様子で口を開く。
「そうだシフォン様、ほら、僕良いモノ持ってきたんだよ!」
彼がそう言いながら私の目の前に差し出したのは、枯れた猫じゃらしだった。
どうしよう、と一瞬固まってしまう。完全なる猫扱いに、困ってしまう。
「猫はみんな好きだもんね、猫じゃらし」
サイモンは目の前で猫じゃらしを振り始めた。小刻みに左右に不規則に動かし、私の目がついその動きを追ってしまう。
(流石に、こんなお遊びには付き合えないわ……。中身は人間なんだもの。腐っても、子爵令嬢のマリーよ)
猫じゃらしの先が、鼻先を掠め、私の細い目がピクッと反応してしまう。
(あら、でも簡単に手が届きそう)
取れそうなほど近くにきた拍子に、一度だけヒョイと右前脚を上げて爪を立て、掴もうとするが、するりと手から逃げてしまう。
(く、悔しいものね。目の前でチラつくから、鬱陶しくてつい手を出したくなっちゃうじゃないの)
一度手が出ると止まらなかった。
負けじと左右の前足を駆使して、猫じゃらしを取ろうとする。
「ブミャっ、シャッ(寄こしなさいっ、サイモン)!」
気がつけば私は立派に猫じゃらしに遊ばれていた。そこへ元帥が腕を伸ばし、サイモンから猫じゃらしを取り上げた。
「サイモン。シフォンが欲しがっているんだ。可哀想だから、渡してあげなさい」
そういうと元帥は目尻を下げて、にっこりと笑った。
「ほら、存分に堪能するといい」
鼻先に差し出された猫じゃらしを前に、一瞬固まってしまう。
(いや、渡されてもね……)
くったりと動かない猫じゃらしを咥えて受け取るが、座席の上に置いて見下ろしてしまう。
これでは当然ながら、ただの一本の雑草だ。
困って見上げると元帥は更に目を細めた。
「嬉しいか? シフォン、お前が嬉しいと私も嬉しい」
どうしよう、もの凄く勘違いされている。
それに、元帥がブサ猫に骨抜きにされかけている。
でも親バカならぬ猫バカぶりを前に、元帥をがっかりさせたくない。なんとか小芝居をうたねば、と急いで猫じゃらしに再度手を出す。
そのまま両前脚で抱え込みながらひっくり返り、全身で喜びを表現する。
「ブミャ〜(超嬉し〜)!」
足が短すぎる上に胴体の毛がフサフサと長いので、仰向けになると元に戻るのが一苦労だ。
コロコロと座面を転がって歓喜を披露してみせる。チラリと二人の様子を確認すると、二人とも蕩けそうに微笑んでいる。――やった、大成功だ。
元帥はこの上なく甘い声で言った。
「そんなに猫じゃらしが好きなら、今度たくさん集めさせよう」
(ち、違うの。全然欲しくなかったわ……)
転がりすぎて手摺りの下まで来た私は、そこで止まると心の中でやれやれとため息をついた。
人を喜ばせるのも、ラクじゃない。
猫には猫の苦労があるのだ。
こうして私たちは王都に着いた。