城代のトム
「そもそも猫を飼うより、お館様には急務がおありですよ。奥方様を選ぶ、という」
「もう選んだ。だが逃げられたんだ」
「ブヒャっ(違うの)!」
淡々と自虐的な事実を述べる元帥に、城代は呆れた。
「あんな無礼な子爵家の娘のことなど、お忘れください。結婚同意書の交換を目前にして姿をくらますなど、実にけしからんことです。一体、お館様に何の不満があったのか! しかも『ポイ捨て令嬢』の分際で」
「ブミャゴ(す、すみません)……」
「そのあだ名は不適切だ。彼女は何も悪くなかったのに」
元帥は険のある目つきで城代をひと睨みしたが、彼も負けてはいない。
白い眉をキッと顰めると、強気に続けた。
「お館様は今年で二十四歳になられるんですよ。そろそろご結婚をされませんと」
私の頬を、城代が人差し指でつんと小突く。
「猫は呑気で実に羨ましい。ーーお館様、少しはアルフォンソ様を見習って下さいませ」
「あいつの何を見習うんだ。私が戻る直前まで来客があったようだが、どうせ女だろう?」
鋭い視線を元帥が送ると、城代は気まずそうに咳払いをした。
「それは、まぁ。はい。有名なオペラ歌手だとか」
「またあの腐れ歌姫か。まったく。呆れてものが言えん」
「十九歳と、お盛んなお年頃ですから。それより、お館様はもうそろそろ、本当にメルク公爵家の後継ぎについて考えて下さらないと!」
「そもそもすぐに新しい花嫁候補など、見つかるはずもない。私が巷でなんと言われているか知っているか? 三人の愛人を侍らせている、だの拷問が趣味だの…」
(あれっ、それちょっと違うわ。 三人じゃなくて、四人ってことになってるけど…)
「拷問は仕方ありませんなぁ。戦場では時に不可欠です。スパイに拷問は鉄則でございます。塩梅次第では重要機密を絞り出せますし。元帥には兵達の命という重い責任がおありですから」
「いずれにせよ、気持ちのいいものではあり得ない」
一旦言葉を区切ると、元帥は己を嘲るように顔を歪め、投げやりに言った。
「ーーその上、私は腹心の部下を斬り殺すような、残酷で非道な男らしい」
「それは嘘です!」
城代は義憤にでも駆られたのか、顔を急に真っ赤にして、大きな声で抗議した。
「何が起きたのか知らぬ者達の、無責任なうわさ話に過ぎません。私はちゃんと知っております。――お館様は、大怪我を負って動かせなくなった部下の、最期の望みを叶えてあげるべく、トドメを刺されたのだと。苦しみをいたずらに長引かせまいと」
元帥は城代から顔を逸らすように、首を傾けて俯いた。見上げる位置にいる私からは、彼の表情がよく見えた。銀色の目には、薄っすらと涙が溜まっている。何かよほど辛いことを思い出してしまったかのように。
――元帥は泣く泣く、部下を手にかけた?
(なんてこと。あの噂も、嘘だったのね。やりたくもないことを、心を鬼にしてやったのに、世間は彼をただの冷酷な人殺しだと決めつけたのね)
冷たいまでに整っているせいでいつもは無感情にすら見える元帥の顔が、今はとても苦しげだった。
元帥は苦痛に耐えるように、押し殺した声で言った。
「真実など、結果として目に見える事実のほんの一部に過ぎない。皆、信じたいものを信じるのだ」
それは私にとっても意味深なセリフだった。私と妹の間に起きた出来事は、同じく歪められて言い伝えられたのだから。
元帥の指がわたしの首に回り、ゆっくりと首筋をなぞる。それがとても気持ちよくて、思わず心地良さに身を委ねてしまう。
城代は元帥が言ったことを全て拒絶するように、首を激しく左右に降った。
「どんな噂が広まっていようが、天下の元帥にあらせられます! 辣腕のお館様の猛攻に、落ちない国ーーじゃなくて、ご令嬢はいませんとも!」
「そんなはずあるか。現に逃げられたのに。――それに私だって、女なら誰でもいいわけではない」
「もちろんです。ですから、私が厳選した未来の公爵夫人に相応しいレディ達のご推薦リストを、以前お渡ししたではありませんか」
それはどんなリストなのか、ちょっと見てみたい……。
城代は大きな目を爛々と輝かせて、元帥に一歩近寄った。
「あのリストは素敵なレディばかりでしたでしょう?」
「ああ、そうだな」
「ぜひ、今度はあの中からお相手をお選び下さい!」
「分かった、分かった。マリーがいつまでも見つからなければ、そうしよう」
元帥の返事はかなりの棒読みだったが、城代はもうスキップでもしそうな勢いだ。手を胸の前で組んで、シワだらけの顔を薔薇色に輝かせている。
急に興奮しだした城代をやや鬱陶しそうに、元帥が片手をひらひらと振って落ち着かせる。
「そのうちお前に必ずや、公爵夫人を見せてやる。安心しろ」
「いやいや、でしたらそのブサね…ゴホッ、シフォン様を飼うなら、離れの棟の方が後々宜しいのでは? 公爵夫人が動物好きとは、限りませんから」
城代は壁際の飾り台に手を伸ばし、滑らせると何かをつまみ上げた。それを自分の目の前に持って来ると、まるで掃除の仕上がり具合を確認する姑のように眉根を寄せる。
「ご覧下さいませ。既に猫の抜け毛があちこちに!」
「ブニャ〜(お恥ずかしい)……」
私のもふもふの毛が、結構あっちこっちに落ちているらしい。思わず前脚で目を覆う。
元帥は城代を睨むと冷たい声で言った。
「もう下がれ。警備に戻るんだ」
「御意。――その日を、楽しみにしております!」
よほど今まで元帥が結婚しないことを心配していたのか、隠しきれない安堵と喜びで声を明るくさせながら、城代は頭を下げて部屋から出て行った。廊下はスキップしているに違いない。
扉が閉まると、元帥は床に腰を下ろした。長い足を軽く組み、あぐらをかく。
「お前は、自由な野良猫の方が良かったか? ここを出て王都に帰りたいか?」
「ブミャッ(そんなことない)!」
そんなつもりじゃない。
なんとか分かってもらいたくて、首を伸ばして元帥の膝頭に頰を擦り寄せる。
「シフォン。……意外に甘えん坊なんだな」
そう呟くと元帥はさっと後ろを振り返り、城代が退室したことを確認すると、いたずらっぽく小さな笑みを浮かべた。
その後で一言、私に言う。
「引っ掻くなよ?」
直後、急に顔を寄せて私にまさかの頬擦りをしてきた。元帥の秀麗な顔が異様に接近し、すりすりと押し当てられる。
(ヒィィイイ!! 「無」よ、心を「無」にするのよ!!)
元帥に頬擦りをされている間、私はひたすら脳内を空っぽにして、現実を直視すまいと心がけた。
「なんて柔らかいんだ」
耳元に響く重低音に全身が硬直し、とてもだけれど引っ掻くどころじゃない。
元帥はものの二秒ほどで顔を離した。そうしてややしみじみとした声で宙を見た。
「城門に囲まれたこの屋敷は、野良猫にはさぞ息苦しいんだろうな。――明日は散歩がわりに王都に一緒に連れて行ってやろう」
そう言うと元帥は、私の顎の下を指先で撫でた。
繰り返し優しく往復するその動きに、うっ、と目が細くなる。
(な、なに、コレすっごく気持ち良い……!)
あまりの気持ち良さに、頭の毛がぺたんと倒れ、耳まで垂れ耳のように倒れてしまう。
「ブミャ…ミヒャッ」
天にも舞い上がる心地よさで、悶えてしまう。
「なんて……、なんて可愛い仕草をするんだ…。私の心を鷲掴みにするつもりか」
元帥は綻ぶように優しい笑みを浮かべた。
直後、元帥の手が私の両頬を包み、顔がグッと近づいたと思うと、私の額に唇が落とされる。
意識が飛びそうになるのを、なんとか堪える。
元帥の整いすぎた顔が異様なまでに接近したまま、悩ましい溜め息をつく。
私は必死に「無の境地」に逃げ込むしかなかった。その頭上から、甘い声が響く。
「あとでミルクを持ってきてやろう。待っててくれ」
あー、温めたミルクは最高よね、とろけるわ〜、と喜びかけて、けれど次の瞬間我に返る。
自分がどんどん猫らしくなってきていることが、怖い。この現実を受け入れてしまえば人としてのマリーは、どうなってしまうのか。
こんなんじゃダメ、と言い聞かせながらも、私はあまりの気持ちよさに微睡みに落ちていった。





