公爵邸の探検②
高い城壁に囲まれた広大な敷地内には、畑や小さな礼拝堂もあった。
屋敷を守る為の騎士達もいて、赤く目立つ服に一際立派な剣を腰から下げた白髪頭の男性が、彼らに何やら指示を与えている。あれはきっと、公爵邸の警備の最高責任者の城代なのだろう。
王都の中心部にある子爵邸で育った私には、地方の領主の城の構造は何もかもがとても興味深い。
ここはただ豪華なだけではなく、領民を守る為の堅固な砦としての役割があるのだ。
城壁沿いに歩いていると、犬の鳴き声がした。まさかと思いつつも体を強張らせているうちに、茶や黒色の犬たちが私の前に姿を現した。
全部で、七匹。
どの犬もここの番犬か猟犬なのか、大型犬だ。そしてどの犬も低い唸り声をあげており、どう考えても友好的な様子ではない。
(そりゃそうよね。犬と猫が出逢ったら、起きることは一つよね!)
身の危険を覚えて必死に近くの城壁によじ登ろうとするも、爪がうまく引っ掛からず、登れない。
そうこうしているうちに、犬たちはあっという間に私のすぐ近くまで迫った。盛んに吠えたて、噛み付いてきそうな勢いだ。もう、必死だ。
試しに城壁に飛び乗ろうと跳躍してみるが、私の短足ではさほど高くは飛べなかった。
猫の身体能力を信じて、何度か諦めずにジャンプしていると、城壁を這う植物のツルに脚がうまく引っかかり、後はがむしゃらに上へと登る。私の尻尾の先を犬の牙が掠める中、火事場の馬鹿力でなんとか城壁の上に上がることができた。
危なかった――。
私が登ったところは、物見台よりもかなり低い位置にあったが、犬には届かない高さがあった。城壁の平らな部分に身を落ち着け、四本脚で這いつくばって恐る恐る地面を見下ろすと、七匹の犬たちは歯茎まで剥き出しにして、私を見上げて吠え立てていた。
(まずいわ。これは、降りられそうにない)
だが番犬たちの警報のような鳴き声は、幸いにも人を集めた。
数分も経たずに、騒ぎを聞きつけて兵士たちが駆けつけたのだ。
彼らは犬たちに追い立てられるようにして城壁の上にいる私を目に止め、あっと叫んだ。
「あのブサね…じゃなかった、丸っこい猫は、例のシフォン様じゃないか!?」
(今、ブサ猫って言いかけたよね? しっかり聞こえたわ…)
「尻尾の先から、血が出てないか?」
「大変だべ! お館様の飼い猫が怪我してっぞ!」
「早く獣医に見せないと!」
言われて気がついたが、さっき犬に噛まれて怪我をしたようだった。白い尻尾の先が赤く染まっており、自覚したからか急にジンジンと痛みを感じ始める。
兵士たちが犬たちの首輪を掴み、急いで遠くへと引き離していく。犬たちがいなくなっても、私は城壁から動けなかった。なぜなら高すぎて降りる勇気がなかったからだ。
下で待ち受ける兵士たちは、頭を抱えた。
「自力で下りられないのか、シフォン様……なんてこった」
「いやいや、猫は物見台から飛び降りてもケガなんてしないはずだぞ」
「頑張れシフォン様! 猫だろう?」
下から兵士たちが、妙な応援をしてくれる。
けれど私の毛玉から生えたような短い足では、とても落下の衝撃に耐えられそうにない。
「だめだな、シフォン様。ありゃ、相当なビビりか運痴だな。下りる気、ないぞ」
「飼い主には全然似てないな」
「どうやって登ったんだべか」
「仕方がない。誰か、大きい虫取り網を持ってこい! 下から掬って捕獲するしかない」
(ああ、皆様。ご迷惑おかけします)
こうして私は大騒ぎの中で、虫取り網を三人がかりで掲げた兵士たちによって、城壁の上から絡め取られて救出された。
どこからか声が聞こえる。
「獣医は心配いらない、と申しておりましたよ、お館様」
少ししゃがれた男性の声だ。
初めて聞く声だ。誰だろう。
「ここに連れてきたばかりなのに、もう怪我をさせてしまった。――可哀想に」
頭を優しく撫でられた拍子に、目が覚める。
目を開けると、私を覗き込む元帥の銀色の瞳が至近距離にあった。枕元に置かれたランプが、彼の彫りの深い鼻梁にさらに深い陰影を与えている。
「起こしてしまったか。ーー悪かった」
どうやら元帥は帰宅したばかりらしく、まだ肩にマントをつけている。床に片膝を突き、寝床のクッションにいる私を見下ろしていた。
元帥は王都からなかなか戻らなかったので、私は先に寝ていたのだ。
人間のように無防備に仰向けで寝ていた姿を見られ、気まずい思いで首までブランケットに潜り込む。
元帥は床に膝を突いて私の額を撫でながら、言った。
「皆から聞いた。――外に出たのは、王都に帰ろうとしたからか?」
とんでもなく飛躍した解釈をされているようだ。ただアルフォンソと恋人からなるべく離れたかっただけなのだが。
「ンニャッ(違います)」
元帥は弱々しくため息をつき、投げやりな笑みを浮かべた。
「猫まで私から逃げようとするとはな」
違うのに。
私はーーマリーもシフォンも、元帥から逃げようとしたりはしていない。
ゆらり、とランプの灯が揺れて、元帥の背後に白髪頭の男性が立った。
昼間遠くから見た、赤い服を着ている城代だ。いかつい顔に、丸いぎょろりとした大きな目をしている。最初に聞いた声の主人は、彼だったらしい。彼は私を一瞥すると、腕を組んで顎を反らした。
「子猫ならいざ知らず、ここまで大きい猫を急に飼うのはやはり無理なのでは? シフォン様も野良猫に戻りたがっているのかもしれませんよ」
城代の台詞に驚いて耳をピンと立ててしまった。
私には戻れるところなんて、ない。今元帥に見捨てられたら、困るのだ。野良猫に戻ったりしたら、それこそ野垂れ死んでしまうし、妹の思うツボだ。
両方の前脚を伸ばして、私の額から離れていく元帥の手に肉球で必死にしがみつく。
(こうなったら、捨て身で「懐いてきている飼い猫のキュンな仕草」をやってみるしかない…)
思いっきり元帥の手に髭をすりすりして、精一杯の笑顔を披露して見せる。
(これでどう!? 笑う猫よ!)
更に畳みかけようと、できる限り可愛らしい鳴き声を目指して、猫撫で声で鳴いてみせる。目指すは「ミャー★」だ。
「ぅブフミャ〜」
……多分、色々失敗した。
城代は何故か噴き出してから腰を折って笑い、元帥は何か衝撃的なモノでも見たかのように目を丸くして、口元を空いている方の手で素早く覆った。
(しまった。あまりの酷さに、引かれちゃった?)
元帥はランプの明かりをその銀色の目に反射させ、私を凝視していた。
(いやぁぁぁ、その視線が、痛いわ…!!)
そうして無言で私を見つめた後で、元帥は絞り出すように呟いた。
「なんて、――なんて可愛いんだ…」
(あれっ? 可愛かった? 引いてなかった?)
元帥が右手で私の頭を撫でる。彼は吐息を吐きながら、思わずのように言った。
「お前に触れると、気持ちが軽くなって満たされるな。不思議だ。仕事の疲れも悩みも、どこかへ行ってしまうようだ」
「お館様、一体どうなさったのですか。今までどちらかと言えば猫より犬派だと仰っていたのに」
「どうも、シフォンはただの猫には見えないんだ」
「わかりますとも。相当なブs、ーーいえ、ぶっ飛んで個性的な猫ですしね」
(いま、ブサ猫って言いかけたよね?)
「シフォンはなんだか……妙なところがあるとは思えないか?」
「ええと、具体的には?」
「時折、猫らしくないというか」
「ええ、ええ。そうですね。たしかに鳴き声が変わっています! 豚と猫を足して二で割ったような鳴き声をされ…」
「もういい。そういうことを言っているんじゃない。豚だのと……」
城代はまるで反省などしていなさそうに軽く肩をすくめると、白髪頭をぼりぼりとかいた。