公爵邸の探検①
アルフォンソが寝たのか、屋敷の中が再び静まると、私は出窓に座って外を見つめた。
目の前にはよく手入れのされた緑の芝が広がり、その向こうには高い石の塀が見える。王都の様子は千里眼でもない限り、ここからは全く窺い知ることができない。
(エミリアは、今頃どうしているのかしら。マクシムは…?)
帰りたいが、この姿で帰るわけにはいかない。
父は姿を消してしまった私のことを、心配してくれているだろうか。胸がギュッと痛む。
(お父様も私が勝手に出て行ったと思われて、お怒りかしら……)
祖母はきっと怒っている。ディラミン家が公爵家に顔向けできなくした。本当に迷惑な孫だ、と。
叔母がこの事実を知れば、卒倒してしまうかもしれない。
子爵家の様子が気になり、近くに行きたいとは思うものの、一方でこの屋敷を出れば道がまったく分からない。
寂しく窓辺に佇んで午前中を過ごしたが、あれこれと悩んでも事態は解決などしない。ーー今は自分が置かれた環境を探るのも必要だろう。
私は出窓からフカフカの絨毯の上に飛び降りた。
そうして今更ながら、興味津々と居間の中を見渡す。
――よし。元帥が帰宅する前に、屋敷内を探検しよう! そう決めると、廊下へ飛び出した。
公爵邸は広く、たくさんの部屋があった。
一階には今朝私が元帥と食事をした居間や客間、そしてパーティーでも開けそうな大広間があり、その他にも小さな部屋が幾つかあった。
地下もあって、そこは書庫や倉庫として使われているようだった。
二階にも大広間があり、遊戯場や家族用の小さな食堂と居間もあった。格式張らない軽食を摂るときは、こちらを使うのだろう。居間も陽当たりが良く、窓辺に置かれたソファはとても居心地が良さそうだ。
屋敷の中には大きな図書室もあり、何代にも亘って揃えたのであろう見事な蔵書数があった。
特に地理や武器、兵法関係の書物が充実しており、それらは特に何度も読むのか、入り口に一番近い本棚に揃えられていた。
図書室には大きな机も置かれており、そこで資料を読みながら書きものもするのか、大きな燭台と何本もインク瓶が並べられ、机の天板も年季の入ったインクの黒い染みが付着している。
戦争の前はここで夜遅くまで、対戦国の情報収集や研究をしているのかもしれない。
元帥が大きな戦馬に跨り、剣を振るう姿ばかり想像していたので、意外な一面を発見した気になる。
(元帥は無敗の公爵、なんて呼ばれているけれど、一朝一夕で勝利を収めたんじゃないんだわ。努力を重ねて掴んだ結果なのね……)
なぜか少し誇らしく感じながら、図書室を出る。
最上階の三階には元帥とアルフォンソの寝室や空き部屋が広がっており、そこまで見て回ってふと思い出した。
元帥には巷ではいろんな噂があった。
愛人が四人もいて、全員を屋敷に住まわせている、とか。地下には拷問部屋があって、毎夜彼は刃物をその銀色の瞳でうっとりと見つめながら、磨いているらしい、とか。
けれど地下にそんなものはなかったし、屋敷内には愛人どころか家族もアレな弟以外は見当たらない。
(どれも、デマだったのね。軍人としての名声と一緒に、根も葉もない妄想が広まったんだわ)
私の頭を撫でる姿を思い出し、無責任な評判に少々同情を覚える。その上最近、求婚者に逃げられた公爵という不名誉なレッテルを追加してしまった。
あちこちうろついてお腹が空いてきた私は、探検の最後に厨房に向かった。
公爵邸は使用人が使う区画も広く、特に地方の領主館にありがちなことに、厨房が特大だった。調理台が何本も並び、大きなかまどからはモクモクと煙が上がっていて、調理人がパン生地らしきものを両手で捏ねている。
調理人が生地をひっくり返すたびに、小麦粉が辺りに舞う。
天井からぶら下がっているのは、束にしたハーブだろうか。乾燥させているのかもしれない。
油はねや臭い消しのためか、床にはたくさんの乾燥ハーブが茎ごとまかれていて、歩くとサクサクと音がした。
「おっ! あれがお館様が拾われたとかいう、シホンだな!」
厨房をうろついていると、パン生地を捏ねていた背の低い中年女性の調理人に話しかけられた。彼女は手についていた粉をパンパンと叩き落とすと、ニカッと笑ってくれた。
すると近くで銀器を磨いていた若い女性がたしなめるように言う。
「シフォン様、と呼ばないと。お館様の猫ですから」
「シホン様って顔でもないけどなぁ。ははは」
豪快に笑いつつ、調理人はパン生地の載る台から離れ、何やら皿を取ると私の前に置いてくれた。
皿の上には、美味しそうなササミ肉が載っている。
「茹でた鶏肉だよ。これから味付けして、燻製にするんだ。そうするとお館さまが大好物の酒のつまみになる。――シホン様にゃこっちの方が良いだろ?」
ブニャッと頷いてから、早速目の前のササミ肉にかじりつく。柔らかくて、美味しい。
調理人は少し面食らった後で、苦笑した。
「ちゃんと返事もできるなんて、賢い猫だなぁ…」
「あのお館様が連れ帰ってくる猫ですもの。頭脳明晰に決まってます」
珍獣でも観察するような二人の視線を感じながら、私は皿を空にした。そうして気のいい調理人達が今夜の夕食のメニューについてあれこれ会話するのを聞きながら、厨房を後にした。
建物内の散策があらかた終わると、その頃には起きていたアルフォンソのせいで、またひと騒動が起きた。
公爵邸を一人の女性が訪れたのだ。
馬車から降りると日傘をさして玄関まで歩いてきたその女性には、見覚えがあった。
彼女は有名なオペラ歌手で、私も何度か彼女が主演するオペラを観たことがある。
なぜあの歌姫テレーゼがここに? と少しミーハーな気持ちでどきどきしていると、彼女を迎えに玄関ホールに飛び出てきたのは、アルフォンソだった。
「テレーゼ! どうしたんだ、急に来るから驚いてしまうじゃないか」
「だってぇ! 昨日は楽屋にいらしてくださらないから、寂しくて」
「俺の歌姫は寂しがり屋だな」
アルフォンソはそういうとテレーゼの頰にキスをしてから、彼女を抱きしめた。
(嘘でしょ。歌姫テレーゼって、このアルフォンソとデキてるの?)
わたしの姿を見て驚かせてはいけないので、廊下の角から片目だけを出して、玄関ホールの様子を窺う。
テレーゼはアルフォンソの腕の中で、彼を見上げて甘えた声で言った。
「飽きっぽいあなたのことだもの。私に、飽きてしまった?」
「何を言うんだ。俺の頭の中は、君でいつもいっぱいだよ」
(嘘つけぇぇぇ!! 朝までどこにいたのよ、アンタは!)
「前みたいに、離れの棟でもいいから、ここにいちゃ駄目?」
「俺も毎日君に会いたいけど、バレたら兄上に大目玉だからな。前だって、戦から帰ってきた兄上に見つかって、その日のうちに放り出されたじゃないか」
どんな修羅場だったんだろう。
想像するに、あまりある。
テレーゼは残念そうに肩をすくめると、アルフォンソの襟を指先でつまみ、軽く引き寄せる。
「ねぇ、あなた侯爵家のご令嬢とも最近会っていると聞いたわ」
「彼女とは、ただの友達だよ。良い子そうだからね。――本気になられると、困るだろ?」
「まあっ、私は悪い子だって言いたいの?」
「悪い子だけど、良い女だよ」
「水晶騎士団の副団長のくせに、あなたってば本当にいけない人!」
アルフォンソと歌姫を鳥肌を立てながらも生ぬるい目で見つめていると、嬉しそうに笑っていた歌姫の目から、急に表情が消えた。存在感を消していたつもりが、どうやら毛で膨らみ過ぎて、視界に入ってしまったらしい。
彼女は明らかに私を見ていた。
「ねぇ、あのでっかい毛玉、何? 凄く毛を逆立てて私たちを睨んでいるけれど」
アルフォンソがくるりと振り返る。
彼は私を見とめるなり、苦笑した。
「友好的な猫だろ?」
「どこがぁ?」
「兄上が拾ってきたんだよ」
アルフォンソはテレーゼから手を離すと、私の方に歩いてきた。正面まで来ると、腕を組んで背を反らし、私を睥睨する。
「なーにをコッソリ見ていたんだか。――この猫、まさか、兄上にアレコレ告げ口をするつもりかな?」
「猫だものぉ、そんなの無理よ」
くすくすとテレーゼが体を揺すって笑う。さすが歌姫というべきか、笑い声がカナリアの歌声のように、綺麗だ。一瞬、耳を立てて聴き入ってしまう。
アルフォンソは左手を腰に当て、右手で天井を指した。
「シフォンちゃん。兄上のスパイはやめて、上に行ってサイモンと遊んでろ」
「ブニャっ(分かったわよっ)」
くるりと踵を返すと、なぜかアルフォンソが長い足で先回りをし、私の行く手をはばむ。
ペチャンコ顔が彼の脛にぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。
なんなのよ、と見上げるとアルフォンソは眉を盛大にひそめて、私を見下ろしていた。
「待て待て。なんだぁ? 俺の言葉が分かったのか……?」
ぎくりと後ずさる。
「どうしたのぉ? 珍しくあなたが怖い顔して」
「――いや、よく見れば妙な猫だよな」
「猫なんていいじゃない! ねぇ、テラスのコスモスは咲いた? 見たいわ」
テレーゼは後ろからアルフォンソに抱きつき、首を巡らすと、悪戯っぽい目でアルフォンソを見上げた。
「ねぇ、公爵様は今日はずっとお留守?」
「ああ、兄上は夕方まで帰らないらしいよ」
途端にテレーゼは顔を綻ばせた。
「良かったぁ! あの方、いつ会ってもすごく怖いんだもの。酷いのよ、私のこと『やかましいカナリア』って呼んでるの、知ってる?」
するとアルフォンソが声を立てて笑った。
「そこ、笑うところじゃないでしょう!」
「悪い悪い。――ほら、分かるだろ? 兄上はこの家の跡取りだったからな。昔から女性たちの方から擦り寄ってくるものだから、逆に女嫌いになっちまったんだよ」
「あらじゃあ、その反動であなたは女好きなのかしら?」
「女性に優しい、と言ってくれ。でも兄上も、皆に怖いわけじゃないんだ」
するとテレーゼは目をぐるりと回した。唇を尖らせ、不満そうに言う。
「とてもそうは見えないわぁ。あの方、腰からぶら下げた剣がいつもガチャガチャ鳴ってるし、銀色の目力が凄くて」
「んん、分かるよぉ、テレーゼ。兄上の頭の中には、日頃は武器と戦略のことしかないのさ。だからこんなに魅惑的な歌姫を前にしても、優しい言葉一つ、かけないんだ」
「あなた達って、本当に中身は似てないのねぇ」
くすくすとじゃれ合いながら二人が歩き出したので、慌てて廊下の端に置かれた長椅子の下によけて、二人が通り過ぎるのを待つ。
二人はそうして客間の中に消えていった。
中で繰り広げられている会話は聞きたくもないので、なるべく遠くへ行こうと、私は庭に出た。
石畳の間から伸びる、チクチクとした雑草を脚元に感じながら、広い庭を歩く。
(複数の恋人がいるなんて、不潔だわ! きっと、他にもたくさんいるんだわ。というか、もしかして元帥の愛人の噂って、アルフォンソのせいなんじゃないの?)
酷い話だ。
ぷりぷりと怒りながら、奥へと進む。