公爵の弟
翌朝、私は一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
薄目を開けて視界に飛び込んできたのは、白い猫の手で。
(ああ、そうだった。私、今シフォンなんだわ……)
現実を思い知らされ、愕然とする。
だが、少なくとも野良猫や捨て猫ではなく、保護された身なのだ。悲観しすぎないようにしつつ、まだ覚醒し切らない頭で、クッションをおりて客間の中を徘徊する。
客間の角には大きな鏡が置かれていて、ついそこで立ち止まった。鏡の向こうには相変わらず、凶暴顔の猫がいる。
もう少しなんとかならないものか、と目を大きく開きながら上目遣いに「にゃー」と可愛い声で鳴いてみるも、「ブミャー」としかならず、見開いた目が怖さを助長している。
目から人を殺傷できる光線も出せそう。
「ブサ猫道」を極める方が、よほど簡単かもしれない。試しに後ろ脚で立ち上がって、攻撃寸前の熊のように前脚を高く掲げ、歯を剥き出しにして牙を見せながら、鋭い目つきで「シャアァァッ!!」と鳴いてみる。
(うわっ、怖いよう!!)
心臓が縮み上がった。自分で自分の姿に、怯えてしまった。こりゃ、酷いものを見た。
夢に出てきそう……。
「何をしてるの、シフォン様?」
声をかけられたのと、鏡の中にサイモンと元帥が映ったのはほぼ同時だった。
びっくりしすぎて、一瞬文字通り総毛立つ。今の姿を見られていたとしたら、恥ずかしすぎる。
「お前は見ていて本当に飽きないな」
「よく寝れた?」
「ンナー(ぼちぼちです)」
「朝ごはんの時間だよ! おいで」
昨夜と同様、ツートンカラーの制服を着たサイモンが、私が出られるよう、大きく扉を開く。
そうして私たちは居間に行った。
居間ではすでに白いテーブルクロスのかけられたテーブルに、果物を含めて朝から豪勢な食事が並べられており、言われずともそれが元帥の朝食なのだとわかる。
その隣にはトレイが置かれ、房飾りのついたクッションが敷かれていた。
サイモンはそのクッションの上に私を誘導した。
「好きなだけ食べてね」
サイモンが言い終える前に、私は顔を牛乳の中に突っ込んでいた。
手早く朝食をすませると、元帥は出かける支度を始めた。切れ切れに聞こえる話によれば、どうやら王宮に出かけるらしい。
サイモンが指示を受けて、ブーツや手袋を抱えて屋敷の廊下をバタバタと行き来する。
マントを羽織り、外出の準備が整うと元帥は玄関で見送る私をチラリと一瞥した。
「いいか? 家具やカーテンを引っ掻くんじゃないぞ。ベッドに乗るのもだめだ。毛だらけになるからな」
物凄い身長差で受ける忠告は、かなりの威力があった。
爪を立てまいと必死に引っ込める。
玄関ホールの真ん中まで進みかけ、元帥は再び足を止めた。
「それと、ネズミを捕まえても私には見せなくていい」
(捕まえません……)
馬車まで元帥をお見送りしようと彼に続いて外へ出ようとすると、ぎろりと睨まれた。
「挟まるぞ。下がりなさい」
そう言うなり、バタン、とドアが私の目の前で閉められてしまった。
元帥が王宮に出かけてしまうと、少し経ってから彼と入れ替わるように、一台の馬車が公爵邸に止まった。
侍女たちが「アルフォンソ様がお帰りになった」と口々に言いながら玄関まで迎えに走るので、私も彼女たちについていく。
サイモンに鞄を持たせて玄関から入ってきたのは、長身の男だった。
マントを靡かせ、豪奢な貴族然としたいでたちから察するに、公爵家の身内なのだろう。
甘い青い瞳が印象的な美形の男だったが、首周りにはジャラジャラとネックレスをつけ、猫の鼻には攻撃的なほどキツい香水をつけていて、挙げ句に朝にもかかわらず、酒臭い。
(やだ、誰なのこの人?)
廊下を進む男の後を追いながら、サイモンが少し咎めるような声で問う。
「また朝帰りですか! ご連絡もなく外泊をしてはならない、とお館様がご立腹でしたよ! 昨夜はどちらに?」
「ラコッタ夫人のところだよ。恋人と夜を過ごして、何がいけない」
「今度はラコッタ夫人ですか? 夫人なのに恋人って、どういうことです、アルフォンソ様! 誰かの奥様なんでしょ?」
アルフォンソは階段ホールまでたどり着くと、立ち止まって右手でサイモンの髪をくしゃっと撫でた。
「サイモンには、まーだ早いかな? 大人の恋愛には、いろんな形があるんだよ。お互い本気にならない程度、楽しくスマートに駆け引きを楽しむのさ。ははは」
サイモンに変なことを教えないで欲しい。
細い目をさらに細めて、全身の毛を逆立てて不審者を睨み、廊下の壁に貼り付くように立っていると、アルフォンソの青い目が私を捉えた。
眉がパッと上がり、愉快そうに目が躍る。
「んん? なんだぁ、このヘンテコな猫は」
鞄を持たされたまま、サイモンが答える。
「お館様が昨夜拾われたシフォン様です」
「兄上が猫なんか飼うのか? 戦でたびたび留守にするのに、なんてこった」
なんてこった。
アルフォンソは元帥の弟らしい。短髪なので気がつかなかったが、よく見れば元帥と同じ白金の髪をしているし、整った鼻や口の形はたしかに似ている。ただし、やたら甘い目と全体から滲み出る雰囲気が、元帥とは圧倒的に異なる。
アルフォンソはそのまま空高く飛んでいけそうなほど、軽そうな男だった。
アルフォンソは私の前まで来ると屈んで、サイモンにしたのと同じように頭をくしゃっと撫でた。
「ブミャゴ(やだ、触んないで)」
アルフォンソがへらっと笑う。
「ははっ。鳴き声までアレな猫だな」
「アルフォンソ様! お館様の猫ですよ! アレとか言わないで下さいっ」
「悪い悪い。つい本音が」
「昨夜はほとんど寝ていないからすぐにベッドに入りたい」と言いながら上階へと続く階段を上っていくアルフォンソを、警戒しながら一階で見送る。
元帥の弟は、想像していた人物とはかなり違った……。





