公爵家の夜
私はサイモンの後ろをトコトコと歩いて、居間まで向かった。
公爵家の居間は暖炉まで大きく、赤々と燃える火が与えてくれる温もりを浴びながら、その前に置かれた布張りの脚付き椅子に座ると、とても気持ちがよかった。
サイモンは私の隣に腰を下ろすと、彼の私物のクシなのかいかにも子供用の小さなクシで私の毛並みをとかしながら、私の顔を覗き込んだ。
「えへっ。猫君、きみ本当にぶちゃいくだねぇ。でも、逆に愛嬌があって、いいと思うよ! ボールみたいだし。僕、ボールって好きだよ。丸いしね!」
にっこりとお日様みたいに笑い、サイモンは真顔になってから話し始めた。
「お館様ってさ、よその人たちにはすっごく怖がられてるんだよね」
うんうん、と思わず頷いてしまう。
サイモンはまるで自分の手柄を話すように、誇らしげに続けた。
「お館様は無敵だからね。春には大陸最東端のリガーロ王国も攻め落としたんだよ!」
なんと、リガーロ遠征軍を率いていたのも、元帥だったらしい。どれだけあちこちの国を倒してきたのか。大陸中の地図を、エーデルリヒトの色で塗り潰すのが生き甲斐なのだろう。
東西南北、全方位をめでたく蹂躙した元帥として、歴史に名を残すつもりなのかもしれない。
そこまで話すと、サイモンは悲しげに眦を下げた。
「でも、お館様は変な噂がついちゃってて。つい最近、縁談がまとまりかけてた令嬢に、逃げられちゃったんだ」
「ブヒャッ(それって)……!」
(――私? 私のことだよね)
「酷い話だよね。『無敗の公爵がポイ捨て令嬢に負けた』なんて面白おかしそうに言う人たちもいるんだよ」
ああ、どうしよう。本当に申し訳ない。
私が猫に変身させられたせいで、元帥は逃げられたことになってしまい、更なる悪評が立っているなんて。
焦燥感に駆られながら見上げていると、サイモンは私の頭を小さな手で優しく撫でた。
「でも、心配しないで。僕らのお館様はね、本当はすごくお優しい方なんだよ。君はお館様に拾ってもらって、とっても良かったね」
そうなの? と首を傾げて見上げると、サイモンはクシの目に付いた水滴を自分のズボンの生地で拭いてから、再び私を梳きだした。
「お館様は、めちゃくちゃ人を殺してるけどさ」
ギョッとして、顔が引き攣る。
背中の毛の一部が立ったのを、感じる。サイモンは私の背を見て、苦笑した。
「でもさ、それは軍人だから。仕事なんだから仕方がないよね。この国のために戦ってきたんだから」
ブニャッと適当に相槌を打つ。
「僕さ、お館様にあこがれてるんだ。僕もいつか、あんな風に強い男になるんだ!」
そうしてサイモンは、ペラペラと自分の話を始めた。
毛がすっかり乾き、サイモンが好きな食べ物から昨日庭で採った虫の話まで、とりとめもない話をしていると、元帥が居間にやって来た。
元帥も入浴したのか、髪は垂らされてガウンを羽織っている。胸元はゆったりと開けられていて、肌の白さが際立っている。
その姿を初めて見た時、彼の抜けるように白い肌と限りなく色素の薄いその姿を見て、まるで妖精の王様のようだ、と思ったものだ。――彼の軍人としての功績は、妖精なんていう愛らしいものではないけれど。
元帥は両手でトレイを持っていた。カップらしきものが下からも見え、飛びつきたい衝動をなんとか抑える。
(あれは多分、いいえ絶対にミルクだ!! はやく、早く飲みたい……っ!)
カップへの突撃をこらえて前脚をプルつかせる私の前で、元帥は立ち止まった。椅子の上の私を見つめ、ふと呟く。
「顔のついた大きな毛玉みたいだな……」
「すっかりフワフワで全身が綺麗になりましたね! 見違えましたでしょう? 僕、頑張って猫君を梳かしました」
「その子は男の子ではない」
「えっ、雌の猫でしたか? 洗うときにちゃんとご覧になったんですね!」
(ど、どこを見たの!?)
「ごめんねぇ、猫ちゃん! ――あの、お名前はどうなさるのですか?」
サイモンが無邪気に見上げると、元帥は首を少し横に傾けた。
顎先に手を当て、しばらくの間そうして考え込んだ後で、彼は言った。
「そうだな。フワフワで良い香りがするから――シフォン、にしよう」
「シフォン! 可愛い名前ですね。お館様が大好きなお菓子ですもんね!」
そういうなり、サイモンは私にシフォン、シフォンちゃん! と何度も笑顔で呼びかけた。きっと私に名前を自覚させようとしているのだろう。
うん、もう分かったよ……。それより、どうか早くお腹の中に入れるものが欲しい。切実に、空腹がひどい。
元帥ははしゃぐサイモンを尻目に、私が乗る椅子の上にトレイを置いた。素早く覗き込むと、そこには白い綺麗な皿とカップが並んでおり、小さなパンや茹でたさつまいもとハム、それに牛乳が目に飛び込んできた。
(食べていいの!?)
祈るような気持ちで見上げると、気持ちが通じたのか元帥はコクリと頷いた。
ここ数日、私は何も食べておらず、もう胃がぺちゃんこに萎んでいるのだ。
パンに飛び付き、むしゃむしゃと食べ始める。とても柔らかい白パンで、残り物や動物用のふすまだらけのパンではない、甘く美味しいパンだ。噛み締めるほどに食事にありつけた安堵と喜びが広がり、心の中は大泣きしていた。
なんて美味しいのだろう。今まで食べたどんなご馳走よりも、贅沢に感じる。
牛乳は温めてあり、飲みやすい絶妙な温度だった。
(ああ、元帥。貴方に激アツな紅茶をかけた私は、なんて酷いことをしたのかしら)
「よっぽどお腹空いてたんですね、シフォン」
「そのようだな」
牛乳から顔を上げると、顎まで濡れそぼっていた。鼻から下の毛が、びしょびしょだ。それを見るなり、サイモンが噴き出す。
「シフォンってば顔がぺちゃんこだから、牛乳を飲むと顔面を突っ込むことになって濡れちゃうんですね」
「可哀想にな。でも、なんだか滑稽で面白いな」
元帥まで口元を歪めて笑っている。
かなり恥ずかしい状況ではあったが、お腹が空きすぎて、私はとにかく食事に意識を集中させた。
元帥とサイモンは食事に夢中になる私を、しみじみと見ていた。
「お、お館様。なんか、毛玉…、じゃなくシフォンのお口がモゴモゴ動いて、背中がフワフワしてたまらないですね」
「グシャッとした顔が更にグシャグシャになって、心が抉られるな」
随分な言われように、ふと不安になってさつまいもから顔を上げると、意外にも二人は異様に真剣に私を見つめていた。目が合うなり、彼らは同時に溜め息を吐いた。
「なんだろうな、たまらん」
「僕、すっごくナデナデしたいです」
「食事に集中させてやれ」
出してもらった食事を私が完食すると、元帥はナプキンで私の顔面をゴシゴシと拭き始めた。
「風呂に入れたばかりだというのに。手のかかる猫だな、お前は」
「でも野良だったとは思えないほど、大人しいですね。前に誰かに飼われていて、捨てられたんですかね?」
「かもしれないな」
サイモンが私を撫で始め、片手では足らなかったのか両手で背中の毛並みを撫で回す。
勢い余って体重までかかっていて、ちょっと重い……。
「力を入れ過ぎだ、サイモン。シフォンの短い足がプルプルしてるじゃないか」
「あ、ごめんねシフォン」
サイモンが私からパッと手を離す。
すると元帥はサイモンの肩に手を置いた。
「もう遅いから、そろそろ寝るとしよう」
「シフォンのベッドはどこにしますか?」
「放っておけば好きな所で寝るだろう」
「えっ、でも誰かに踏み潰されちゃうかもしれません!」
「猫に寝床など、不要だ。そんなに甘やかすものじゃない」
「そうですかぁ。分かりました。――お休みシフォン!」
威勢よく挨拶をすると、サイモンは私がパンクズに至るまで綺麗さっぱり平らげた皿を持ち、ランプを持ってドアに向かった。居間のランプを消すと、元帥もサイモンの後に続く。
残された私は部屋の隅に行き、壁にお尻を当てて座り込み、体を落ち着ける。
ドアを開けて廊下に出た二人は、こちらを振り返るとピタリと動きを止めた。
二人並んで、なぜか私を無表情に見つめている。
「お館様、なんか……暗闇にシフォンの細い吊り目だけが光ってて、怖いです」
「ああ。想像以上にちょっとアレだな」
アレってなんだろう、と戸惑う私をよそに、パタンと扉が閉められた。
二人の足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなると私は床にゴロンと転がった。
木の床は少し硬いが、昨夜まで寝た野外の草むらに比べたら、ここは天国だ。
仰向けになったり、横向きになったり、寝心地いい体勢を研究していると、急に居間の扉が開いた。
はっと顔を向けると、ランプを片手にした元帥が、一人で再び姿を現した。
彼は私を見てしばし立ち止まった後、カツカツと目の前まで歩いてきた。
「――まだそこにいたのか。せめてソファで寝ればいいものを」
言い終えるなり、元帥はこちらに手を伸ばした。固まっている私を、そのまま抱き上げる。
「寝床を準備したから、来なさい」
好きな所で寝ればいいのではなかったのか。
困惑して顔を見上げると、元帥は独り言のように呟いた。
「誰でも、皆居場所は必要だからな……」
居場所……。
その言葉は不思議と耳の中に響き、私の胸の中でぽかぽかと暖かくとどまり、充足感を与えた。なくしていたパズルのピースが、急に見つかって収まったみたいに。
元帥の腕に顎を載せると、体から力が抜けていく。
(ああ、抱っこって気持ちいいのね……。知らなかったわ)
元帥の腕の中は、ガウンの生地が柔らかくて温かい。ろくな会話を交わしたことがない男性の腕に収められるという、異様な事態にも関わらず、温もりが心地よくて、つい尻尾がユラユラと揺れてしまう。
その上、廊下を歩く彼の揺れは心地良く、徐々に瞼が下がっていく。
「ほら、ここで寝なさい」との声に微睡みから目覚めると、私たちは小さな客間にいた。
私のために用意された寝床は、客間の片隅に置かれていた。大きなクッションが敷かれていて、房飾りの付いた純白のブランケットも丸めて隅に置かれている。
そこにそっと下ろされて体の下に柔らかな寝心地の良いクッションを感じると、頭から爪先まで脱力して、身を預ける。
数日ぶりの寝床は、まるで天国だった。
睡魔に身を委ね、目を閉じると赤ん坊を寝かしつけるような、元帥の意外なほど優しい声が聞こえた。
「ゆっくりお休み」
(ああ、なんとか生き延びたわ……)
もともと嫁ぎにくる予定だったのに、猫として飼われることになってしまった。色々とこんなはずじゃなかったけれど、野垂れ死ぬところだったのを思えば、遥かにマシだ。
私は眠りについた。





