メルク公爵邸のお風呂
いつの間にか雨は止んでいた。
元帥の屋敷がある公爵領は、王都からかなり西に位置していた。
二時間ほど馬車で走っただろうか。
後ろ脚で立って前脚を桟に掛け、窓に張り付いて外を確認すると、月明かりに照らされて景色がよく見えた。王都を離れて西部に入ると、美しい景色が広がっていた。
緑の絨毯がなだらかな丘上にどこまでも続き、所々に凪いだ湖が顔を出す。そして豊かな丘の後ろに聳えるのは、青々とした雄大な山々だった。
(もうすぐ公爵領なのかしら。意外だわ……とても綺麗なところね)
窓に映る自分の凶悪そうな丸い顔に時折怯えつつも、車窓を眺めてしまう。
こんもりと広がる小さな森から白い夜霧が流れ、その下で毛糸のボールのような羊たちが群れをなしている。
日差しのもとでこの景色を見られたら、どれほど美しいだろう。
豊かで優しげな自然に見惚れていると、やがて前方に灰色の大きな屋敷が現れた。
石造りのその屋敷は小さな森に囲まれ、丘の上に立っていた。
私たちの馬車は、間違いなくその屋敷に向かって走っていた。
ーーあの屋敷が、メルク公爵邸なのだ。
震える喉で息を吸い込み、小さく息を吐く。
ようやく目的地に着いたのだ。
馬車がぐんぐん屋敷に近づき、その全容が視界に入ると、思わず喘ぐ。
「ゥニャーゴロ、ナー……(なんて大きなお屋敷かしら)」
まるで一国の城のようだ。
屋敷全体は城壁で覆われ、その周囲は川が流れていて正面には木の跳ね橋があった。
馬車は跳ね橋を渡って背の高い城門塔へと進む。
堅牢なその石造りの城門塔をくぐりながら見上げると、大きな鉄格子が見えた。普段はこの鉄格子が降ろされ、跳ね橋も上がっているのかもしれない。
城門塔を抜けると城壁に囲まれた大きな中庭に出た。城壁の南側に沿って大きな屋敷が立ち、城壁内部には大小様々な建物が並んでいる。厩舎や倉庫だろう。
優雅に水を上げる丸い噴水の横を走ると、馬車は止まった。
「さぁ、着いた。――おいで。私を引っ掻くなよ?」
元帥の手が伸びてきたと思うと、フワリと抱き上げられる。爪を立てないように彼の胸の中にしがみつき、辺りを見渡す。
馬車を降りると、そこから先は石畳が屋敷の正面玄関まで続いていた。
その石畳に沿って、紺色に白いエプロンという揃いの制服を着た、メルク家の侍女らしき女性たちが二人、並んでいる。
「お帰りなさいませ、お館様。子爵家のマリー様は見つかりましたか?」
「いや、まだらしい」
侍女たちが互いの顔を見合わせた後で、言いにくそうに再び口を開く。
「なんでも、マリー様はお屋敷から忽然とお姿が見えなくなったとか……。まさか誘拐や事件に巻き込まれたのでは?」
「怪しい者たちは目撃されなかったらしい」
そう答えた後で、元帥は自虐気味に笑った。
「急に進んだ私との縁談にかなり困惑していたようだからな。――これで私も求婚者から逃げられた公爵として、有名になりそうだ」
「そんな滅相もないことを申されても!」
会話内容に身が縮み上がる。
どうやら私が姿を消し、元帥にも迷惑がかかってしまっているようだ。申し訳ない。
侍女たちは元帥の腕の中の私に、ようやく気がついた。私と目が合うなり、小さく叫ぶ。
「――そ、ソレはなんですかっ!?」
「猫だ。見れば分かるだろうに」
「ソレ、……ね、ネコなんですか?」
「あまりに必死に鳴いているから、拾ってきた。個性的で、よく見れば愛嬌があるのだ。今日から飼うことにする」
ええええっ!? と二人は心底驚いたように目を見開いた。
無理もない。それが順当な反応だろう。
狼狽する侍女たちを無視して、元帥はつかつかと屋敷に入っていった。
元帥の屋敷はあらゆる部屋が子爵邸よりも大きかった。
玄関ホールだけでも食事会場にできるくらい広く、廊下も幅があって天井はどこも見上げてしまうほど高い。
元帥は私を抱えたまま、真っ直ぐに浴室に向かった。水色のタイルが敷かれたその部屋は、六角形をしていて、天井はガラスのドームになっていた。
星が煌めく夜空が見えて、美しい。
(なんてお洒落なの。女子の心をくすぐる作りだわ)
浴室の真ん中には白いバスタブがあり、馬車の到着に気づいてすぐに支度がされたのか、既に湯が張られていた。
香油が垂らされているのか、湯気と共に柔らかな花の香りが漂う。
(あれっ、ちょっと待って。これってまさか!?)
元帥にしがみつこうと身体を硬くさせたが、一歩遅かった。抵抗の間なく目の前に水面が迫り、身体が湯気に包まれていく。
ザブン、と温かな湯に全身が浸り、毛が広がる。
元帥は私をバスタブの中に入れたのだ。片手で私の前脚を支えながら、そのままバシャバシャと湯を頭や背中の上に掛けてくる。
私は鳴くことも暴れることもできず、ひたすら固まった。
バスタブは猫の私からすれば、とてつもなく大きく、溺れそうなので元帥の手に縋るしかなかった。湯は温かくて気持ちいいが、怖さの方が勝る。
緊張していた私だが、元帥が泡立てた石鹸をつけてくれると、ようやく少しホッとした。
ずっと外を這いずり回っていたし、雨に打たれていたせいで、汚れて気持ちが悪かったのだ。
元帥の手が頭から首、背中と全身を撫でまわし始める。
「ブニャニャッ、ニャヒッ(そんな、身体中を触んないでっ)!」
乙女としては抵抗があり過ぎる。
私は猫だ、と何度も頭の中で唱えて、事態をどうにか肯定的に捉える。
そこへパタパタと足音がして、真上から甲高い声が落ちてきた。
「お館様、そんなことは僕が致しますっ! お召し物が汚れます」
右目に入った泡がしみて、左目だけでバスタブの中から見上げると、元帥の隣に少年が立っていた。
少年は赤と紺色のツートン模様の服を纏って、ピンと背筋を伸ばしている。質は良さそうだが少し地味な作りの服装から察するに、公爵家の小姓だろう。
礼儀作法や武芸を学ぶために、貴族の子弟がより上流の貴族の家に仕えるのは、古くからの慣わしだ。
金色の髪の毛がふわふわとまだあどけない顔周りにそよぎ、そばかすだらけの頬はまだ子供らしい丸みがあった。
少年が私の身体を支えようと手を伸ばすと、元帥は言った。
「構わん。手を出すな、サイモン。私が洗う」
「はぁ…。分かりました」
しょんぼりとしながら、サイモンが小さな手を引っ込める。
全ての泡が洗い流され、バスタブの湯が抜かれて最後に綺麗な湯を頭から浴びせられると、全身の毛がまとわり付いて重たかったがとても爽快感があった。
漂う石鹸の香りが、心地よい。
元帥が私をバスタブから引き上げ、タイルの床に下ろすと、重い毛が鬱陶しくて私は思いっきり全身をブルブルと震わせて水を払いのけた。
あぁ、良い湯だった。サッパリしたわ――と口元を綻ばせようとして、己の過ちに気がついた。正面に立つ元帥が私の水を浴び、濡れそぼっている。その強張った顔と、驚いたように見開かれた銀色の双眸に、一瞬で身がすくむ。
「ブヒャッ!?」
焦りのあまり、豚みたいな声を上げてしまった。
自分の失態にうろたえつつ小さくなる私の前で、元帥はしばし固まっていた。だがそうかと思うと彼は破顔一笑した。
「なんて情けない顔をするんだ。叱る気も消し飛んでしまうな。まったく。――お前は悪い子だ」
笑うと銀色の目がより魅力的になって、少し見惚れてしまう。
元帥はガシガシと私をタオルで拭くと、私を暖炉の前に連れていくよう、サイモンに命じた。





