その④
血にまみれ、ぐちゃぐちゃになった友人の体を見て、真紀は動けなくなった。
いきなりのことで何も呑み込むことができない。声が喉元で閊えて助けを呼ぶこともできない。
頭は混乱して、視界も錯綜してくる。
「MEリー、クRIすMAス」
真っ赤な靴下の上に、未華子の体が移動する。ボタボタと滴る未華子の血で、靴下はさらに赤く染まっていく。
2人が食べようとしていたケーキも、チキンも、未華子の血に塗れる。
「あ…………」
ずる、ずる、べちゃ。
靴下は、未華子の体を乱雑に投げ捨て、真紀の方へと這ってくる。
その恐怖に、ようやく喉の奥から声が出た。
真紀の停止していた時間がようやく動き出す。
真紀の本能は逃げろと告げる。
立ち上がることなく、四つん這いの状態で玄関まで必死に逃げる。
「きゃあ!!!!!」
冷たい手の感覚が、真紀の左足のくるぶしに絡みついた。
その不快な感覚に、真紀の喉に閊えていた詮が消える。
グイっと強い力で引き戻された真紀の体は、くるりと1回転し、視界に靴下が映り込む。その細い腕は無慈悲に、真紀の首元に絡みついた。足をつかんでいた手は、まるで馬鹿にしたようにするすると真紀の肌の上を這い、両手で首を絞めつけていく。
「ぐ……あ……」
真紀の体は宙に浮き、ぶらぶらと揺れる。息もできなければ、振りほどくこともできない。抵抗すれども、まるで大岩を必死に押しているかのようにびくともしなかった。
――――――真紀は完全に死を覚悟した。
真紀が見た真っ赤な靴下からあふれ出した憎悪や怨念は、人を殺すことしか考えていないようだった。
冷たい手から憎悪が伝わってくる。いや、それ以上に喜びも伝わってくる。
まるで、強大な力を手に入れて喜ぶ子どものような、そんな雰囲気だった。
――――――もう、いいや……
意識が、飛ぶ寸前。真紀の目から一抹の涙が零れ落ちる。
悪い気はしなかった。ただ、哀しかった。ひたすらに哀しい感情が湧き上がってきた。
「そこまで」
「えっ……?」
真紀のあきらめかけた心に、静かな闘志が手を差し伸べる。
幻かとも思ったが、まだ耳は周りの音をキャッチし続けている。
――――――自分は生きている。なぜ?
バキバキ、メリメリ。
鈍い音を発し、真紀の腕を締め付けていた細腕は、突如原形をとどめないほど変形した。
驚いた腕は、真紀を玄関の方に投げ飛ばすと、不協和音のような悲鳴と共に野垂れ打つ。
「ごほ……げほ……痛い」
――――――助かった。そのことを真紀が実感したのは、靴下から伸びた青白い両腕をもう一度見た時だった。
「ちっ。遅かったか……」
ぎい、と玄関の古いドアが開く音がする。真紀は驚いて振り返る。
そこには、玄関の枠に背中をつけてこちらを見つめる少年がいた。
悔しそうに俯いている姿が真紀の目に映る。肌は月明かりのように白く、ほんのりと赤紫がかった髪が、目元をうっすらと隠している。青いパーカーに、首元の大きなヘッドホンが印象的だった。
「き、君は誰……?」
真紀は、考える間もなく声を発した。
「そんなことどうでもいいから、早く逃げなよ」
少年は真紀のことを一瞥すると、枠にもたれかかるのをやめ、すぐに靴下の方に向く。
低い身長と、顔つき。しかし幼い印象の中に、凛々しい決意が込められている。
真紀は少年の瞳の色が、なんとも美しいアメシストのような輝きを放っていることに気づいた。
「なあ。そんなに苦しいはずないだろ? お前ら“カイイ”は再生できるんだし」
少年の指摘に、ピタリと腕は動きを止める。そして、靴下はふわりと空中を舞い、
殺気を込めた腕を、再び出現させて少年に向けた。
靴下から伸びたのは、5本もの腕だった。
目に見えないスピードで飛来する腕は、ドンという鈍い音を立てる。
「きゃあ!」
真紀は思わず顔を腕で守る動作をした。それほどまでに恐怖を感じる速度だった。
しかし、5本の腕はすべて少年の眼前でぴたりと止まっている。
まるで見えない壁に阻まれたかのようだった。
「はあ」
少年はため息をついた。
真紀とは違って、飛来した腕を見て瞬き一つしていない。
少年の目の前で停止した腕は、ガタガタと震え始める。それは本体である靴下にも伝わって、震えは徐々に大きくなっていく。
ギロリ。
少年の目の色が、輝きを増す。
押し出されそうなその圧に、赤い靴下の震えがぴたりと止まった。
バキバキ――――――!
腕は不可視の圧力を受けて、再びはじけ飛んだ。
「な、なんなの……」
その光景を見ていた真紀は、何が起こっているのかまったくわからず、ただ息を飲むばかりだった。
はじけ飛んだ化け物の腕は、床に落ちた瞬間、煙のように消えていく。
少年は1歩1歩、歩みを進めていく。床を覆いつくしている真っ赤な血が、少年の靴を染める。靴下は、少年が近づいていくたびにガタガタと揺れる。まるで悔しさを滲ませるような、そんな震えだった。
「……怖いの?」
少年は靴下の傍まで来て、上から靴下を睨みつける。
靴下は怒りを露わにする。
声とも音とも取れない、不協和音が再び部屋に響く。靴下の口から出た腕は、何度も何度も少年の顔目掛けて伸び、
――――――再び見えない壁に阻まれてすべて止まった。
靴下の攻撃は、少年には届かない。
まるで腕の存在そのものを拒絶しているかのようだった。
「そんなに、幸せが食べたいならさ」
少年は机の上に置いてあった真っ赤なショートケーキを皿ごと手に持つと、
「たらふく食べろよ。毒入りだけどな」
ケーキが、青白い光を放つ。少年は靴下の大きな口目掛けて、押し込んだ。
ごくり。
靴下が飲み込んだケーキは、靴下の中で暴れ始める。そして靴下は一気に肥大化する。
ぼふっ。
靴下は口から青白い煙を上げて、沈黙した。
地面に力なく落ちた靴下を見た真紀は、カラカラになった口の中に残ったわずかな唾を飲み込んだ。結局、真紀は立ち上がることなくこの光景を見ていた。まだ、恐怖の残穢が体に残っており、うまく力を入れて立ち上がることができない。
少年は靴下を手に取ると、何事もなかったかのように、着ていた青いパーカーのポケットに入れる。
「あ、あの……」
真紀は何が何だかわからなくて、説明を求める目で少年を見た。
少年の幼いくりくりとした瞳から、紫色の光が放たれる。
「何?」
「いや、何ってこっちのセリフ。君何者……なの?」
少年はその問いかけに答えるように真紀の傍に寄り、手を差し出した。
「おれは、警察」
「えっ、警察? 何が起こったのか説明して欲しいんだけど」
少年は真紀を立ち上がらせると、真紀の要望に応えることなくどこかに電話をかけた。
一言二言、言葉を交わし、すぐに電話を切ると少年は真紀を見る。
「……ちょっと場所を変えるから」
少年はそう言うと、化け物に弄ばれた未華子の死体に向かって、手を合わせた。
――――――おれが、もう少し早く来ていれば。
悔しさと共に、少年は未華子の冥福を祈った。