瓢箪の巫女 ~ 森の泉
大きな瓢箪を持った旅装束の女が、一人山道を歩いていた。
女の名は玲。旅の巫女だった。
目指しているのは、山の中腹にある小さな泉。
かつてはそこの社に神が祭られ、多くの者が参詣していたが、今では訪れる者といえば森の獣ぐらい。社はすっかり荒れ、祭られていた神はいずこへか去っていた。
その泉まであと少しというところで。
瓢箪に結び付けていた鈴が、りりん、と鋭く鳴った。
その鈴の音の鋭さに、玲は立ち止まり眉をひそめた。
「これは……まずいかのう……」
山に入った時から、なんとなく違和感はあった。
やはり、神が去った穴に、何かが入り込んだのだろう。
玲は背負っていた行李を下ろし、長い黒髪を一つに束ねた。
「さて、足りるかのう」
瓢箪を振り、中身を確かめる。
軽い。
椀にしてニ、三杯というところか。人ならざるものを相手にするには、さすがに心もとなかった。
「荒事は苦手なのじゃが。とはいえ、いまさら戻れぬし……」
行くしかないか。
玲は、ふう、と大きく息をつくと、瓢箪だけを手に、静かな歩みで泉を目指した。
◇ ◇ ◇
やがて神に嫁ぎ、この地を守ってくれる巫女となる。
姉は、村中の人が期待する、そんな人でした。
その姉が、村の外から来た若者に恋をして、家族も村も捨てて出て行ってしまいました。
裏切られたと村中の人が怒り、私の両親は吊し上げとなりました。つい昨日まで家族のように付き合っていた人々に激しく罵られ、私の両親は心身ともに病んでしまいました。
やがて姉の出奔が神に伝わり、神は怒り荒ぶりました。
荒ぶる神を鎮めるため、姉に代わって私が巫女とされました。
私には巫女の才などなく、巫女という名の人身御供です。
見よう見まねで祈りを覚え、見てくれだけは巫女となり、私は神へ捧げられました。
それが、十一歳の時。
荒ぶる神は私を責めました。虐げられ、神を裏切った姉の代わりに報いを受けよと、散々に罵倒されました。
私はただ震えて許しを請うことしかできず、まねごとの祈りしか捧げられませんでした。
まねごとでは、神に届きません。
気がつけば私の命は果てていました。
死んだことに気づかないまま、私は長い間さまよいました。
行くべき場所へ行けぬ私を核にして、よくないものが集まりました。
よくないものに焚き付けられ、胸の奥底にわずかにあった姉に対する恨みが燃え上がりました。
私は呪詛を撒き散らし、気がつけば生まれた村を滅ぼしていました。
そんな私を、神はただ嗤うだけでした。
まがい物と責め立て、怨霊と化した私を、神は蔑み嗤いながら、ただ放置しました。
そんな神を、私は憎みました。
姉への恨みと、神への憎しみに身を委ね。
私は荒れ狂い、数え切れぬ命を奪いました。
──さて。
その身に神を背負う、本物の巫女様。
あなたにお願いがあります。
私の問いに、答えてくれませんか。
◇ ◇ ◇
澄んだ泉の上に、どろり、としたものが漂っていた。
恨み、つらみ。
悲しみ、怒り。
そんな、ありとあらゆるよくないものが、核となる何かにまとわりつき、入り混じって巨大な怨霊となっていた。
「これは……やり過ごせんか」
やむを得ぬ、と玲は瓢箪の口に手をやる。
キュッ、とわずかな音とともに瓢箪の口が開くと。
とたんに怨霊がうごめき始めた。
舞のさばきで、とん、と横へ飛び。
着地とともに、りん、と鈴が鳴る。
それが、始まりの合図だった。
どろりと漂っていたものが、稲妻のように宙を切り裂き、玲に殺到する。
ゆるり、ふわり、と怨霊をかわしながら、玲は核となっているものを探す。
だが、見通せない。いったいどれだけのものが集まったのか知れないが、生半可な怨霊ではなかった。
「少々祓わねば、見通せぬか」
玲は腰に差していた扇を手にし、ぱらりと開いた。
開いた扇の上に、瓢箪の中身をとろりとかけ、襲い掛かる怨霊に向かってぱっと散らせた。
オォォォォッ……
苦しげな呻きが一体に響く。玲はさらに扇を一振り、宙を漂う怨霊が薄らいだのを見て、思い切って踏み込んだ。
「あれか」
泉の向こうに、朽ちた社が見えた。
膝の高さほどの、小さな社。怨霊はその社から立ち上っていた。核となるものが宿った何かが、その社に納められているのだろう。それを清めればこの怨霊は晴れるに違いない。
だが、そのためには、この泉を越えなければならない。
「ええい、ままよ!」
玲は泉に飛び込んだ。
ざぶり、と水に沈む感触を予想し、身構えていたのだが。
感じたのは、ねとり、としたまとわりつくような感触。
「しもうた!」
怨霊は、玲が飛び込むと予想していたのだろう。泉に飛び込む前にまとわりつき、玲を強烈に締め付けてきた。
──瓢箪に、清水は入れさせない。
不意に、玲の頭の中に声が響いた。
まだ幼い、少女の声だ。
見抜かれていたか、と玲は臍を噛む。
──泉に飛び込み、瓢箪に清水を入れる気でしたね。
──鎮魂の酒で、我らを鎮める気であったな。
──忌まわしや、鎮魂の巫女。
──神すら鎮めるその美酒。
──作らせはせぬ。作らせはせぬぞ。
まとわりつく怨霊が次々と呪詛を吐く。玲の手から瓢箪をもぎ取ろうと、うぞうぞと玲の体を這いまわり、瓢箪を持つ右腕をしびれさせた。
「くっ……やはり、荒事は苦手……じゃ」
何とか逃れようともがく玲の首を、怨霊がじわりと締め付けた。
息ができなくなり、意識が薄れる。
──私の問いに答えられないのなら。
──そのまま私と一体となればいい。
「その、問いとやらを……まだ、聞いてはおらぬ、がの……」
ぐきり、と腕をねじられ、玲はこらえきれず瓢箪を手放した。
怨霊が瓢箪にまとわりついて口をふさいだ。
同時に、玲を泉に引きずり込み。
その身を怨霊に取り込まんと、殺到した。
◇ ◇ ◇
この村の人が幸せになれるのなら、私は喜んで神の元へまいりましょう。
そう言って穏やかに笑っていた姉でした。
でも、あの男と出会って、変わってしまいました。
優しく穏やかな笑顔に、見たことのない熱を帯びるようになりました。
夜中にこっそりと抜け出して、明け方まで帰らぬ日が続きました。
姉は、恋をしたのです。
恋をして、何かが変わってしまい、そして家族も村も捨てたのです。
巫女様、答えてください。
恋をすると、人は変わってしまうものなのですか──
(すまぬな……その問いへの答えは、持ち合わせておらぬ)
長語りの末の問いかけに、玲は悲しげな顔を浮かべた。
(妾は……誰かを恋しいと思うたことがないのでな)
恋の熱に浮かされた女たちなら、たくさん見てきた。
恋を成就させ、請われて祝福の祈りを捧げることもあった。
恋に破れ、呪詛を頼まれ、その悲しみを慰めることもあった。
だが、玲自身に恋をしたという経験はない。
旅から旅への生活の中、恋しく思えるほど共に時間を過ごした人がいない。
──寂しい人生ですね。
(否定はせぬよ)
──それが、巫女たる者の生き方ですか。
(さて、どうかな。妾は、この生き方以外を知らぬのでな)
──巫女とは、何ですか。
(うん?)
神に仕え、神の意を人々に伝え、穢れを払い、時にはその身に神を降ろす。
それが巫女。
だが、あらためて問われてみると、さて巫女とは何なのかと首をかしげてしまう。
(難しい問い、じゃのう)
ごぼり、と玲は息を吐いた。
「まずい」と思うものの、しがみついた怨霊に縛られて体が自由に動かせない。
(これは……死んだかの……)
玲の体が、泉の底へ沈んでいく。意識が遠のき、仕方ないかと目を閉じた時。
『お前、咎人がそう簡単に死ねると思うなよ?』
闇の底から恐ろしく冷たい声が響き、玲の意識を叩き起こした。
◇ ◇ ◇
闇の底へ通じる口が開こうとしていた。
泉に漂っていたよくないものなど比較にならぬ、禍々しいものがそこから出てこようとしていた。
(いかん!)
なんだ。
なんなのだ。
あれはなんなのだ。
怨霊が恐れおののき、逃げ出した。
玲の体が自由になる。玲は泉の底を思い切り蹴って浮かび上がると、水面に顔を出して深呼吸した。
「くっ……出てこずともよい! 妾が何とかする!」
必死で呼吸を整えると、玲は大声で叫んだ。
玲の叫びに、クククッ、と愉快そうな笑いが応えた。
「だめだ、戻れ! 出てきてはならん!」
ずずずっ、と吸い込む音がして、泉の上を漂っていた怨霊が、開きかけた口に吸い込まれていく。
「いかん」
そちらに行っては、二度と戻れない。
いかな怨霊とはいえ、せめてこちら側で。
玲は水面を漂う瓢箪を手にし、急いで泉の水を瓢箪に吸い込ませた。
「鎮まりや!」
清水で一杯になった瓢箪を高く掲げ、祈りとともに瓢箪の中身を泉に注いだ。
鎮魂の美酒が、泉に満ちていく。
どろりとまどろみ、漂っていた怨霊が、たちまちのうちに鎮まっていく。
それを見ながら、玲は出てこようとするそれに命じた。
「帰られよ! そなたに用はない!」
『そうかい』
どこからか不気味な声が聞こえた。
少女のような、少年のような、そんな若い声。だが、この世のすべての禍々しきものすべてを凝縮した、呪いの塊のような響きを持っていた。
『じゃ、帰ってあげるよ』
クククッ、とそれが笑う。
開きかけた口が閉じていく。行き掛けの駄賃とばかりに、残っていた怨霊を吸い込んでから、それは帰っていった。
口が完全に閉じ、それの気配が消えた。
「……なんとか、間におうたか」
玲は安堵のため息をつき、連れて行かれた怨霊のために祈りを捧げた。
「さて」
空になった瓢箪にもう一度泉の水を吸い込ませると、玲は泉を突っ切り、朽ちかけた社の前に立った。
りん、と鈴が鳴った。
社の中に小さな箱が置かれているのが見えた。
「これか」
玲は祈りの言葉を捧げ、その箱に瓢箪の中身を注いだ。
箱にこびりついていた怨霊が静かに解け。
社の前にぼうっと白い影が浮かび上がる。
玲は膝をつき瓢箪を置くと、ゆっくりと白い影に手を伸ばした。
頭をなでられて、白い影はビクリと震えた。
白い影が、幼い少女の姿となる。年の頃は十かそこら。髪を肩で切りそろえ、巫女の衣装を着て、膝を抱えてガタガタと震えていた。
「心配せずともよい。あれはもう去った」
少女がゆっくりと顔を上げた。
ほおがこけ、疲れ切った顔で、許しを請うように玲を見上げていた。言葉をつむぎ出そうと必死になっているが、唇が震えるばかりで声にならなかった。
「……そなたは、何も悪くない」
玲は少女の魂を抱き締めた。
驚いて大きく目を見開いた少女が、顔を歪ませポロポロと涙をこぼした。
──ごめんなさい。
声にならない思いが、玲の脳裏に響いた。玲は抱き締めた少女の頭を優しく撫で、ゆっくりと首を振った。
「いいのじゃ、そなたは悪くない。何も悪くない。謝ることはない」
──ごめんなさい、ごめんなさい。
──お姉ちゃんを恨んで、ごめんなさい。
──神様を憎んで、ごめんなさい。
──たくさんの人を殺して、ごめんなさい。
「もう謝るな。謝ってくれるな。そなたは、何も悪くないのじゃよ」
何度も何度も謝る少女を抱き締め、慰めながら。
いつしか、玲の目にも涙が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
「姉さま!」
元気な声に振り向くと、薄紅色の着物を身に着けた少女が駆けてくるのが見えた。
「姉さま、今日の修行は終わりましたか? おいしいお菓子をもらったので、一緒に食べましょう!」
元気と愛嬌に満ちた妹はどこへ行っても人気者。行く先々でお茶やらお菓子やらをごちそうになり、こうしてたまにお土産を持って帰ってくれる。修行中ゆえに質素な食事が続く身としては、嬉しい差し入れだった。
「でも、二つしかないので、大姉さまにはナイショです」
「お主が食べぬという選択肢はないのじゃな?」
「ありません!」
元気よく答え、腕にしがみついてくる妹。巫女の才がないゆえに自由でのびのびと暮らしている妹が、たまにうらやましくなる。
「そういえば、大姉さまはいずこへ?」
「うふふー、どこでしょうねー?」
「なんじゃ、その変な笑みは」
「姉さまにはわからないと思いますよー。だって乙女の秘密ですから」
「……妾も乙女の年頃じゃがな」
「お年はそうですけど。姉さま、また大巫女様みたいな話し方になっていますよ?」
「うっ……その、四六時中いっしょじゃからのう、うつってしもうて……」
「四六時中いっしょだから、うつってしまうのよ、ですよ?」
「……そうね、気を付けましょう」
──もう、ああして注意してもらうことはないのじゃな。
抱き締めていた少女の魂が、玲の記憶を揺り動かしたのだろうか。
温かで懐かしい夢だった。
四つ年下の末の妹。ずっと昔に別れたきり、生きているのか死んでいるのかすら、もうわからない。
ふう、と息をついて、玲は目を覚ました。
抱き締めていた少女の魂は消えていた。
行くべきところへ、行ったのだろう。
「すまなかったの」
恋をすると、人は変わってしまうものなのですか。
少女の問いに、玲は答えてやれなかった。
行った先で誰かが少女に教えてくれることを願い、玲は少女の魂が安らかであらんことを祈った。
「さて、と」
祈りを終えると、玲は自分の姿を見てため息をついた。
「ひどいものじゃな」
旅の服は泥まみれだった。
怨霊相手に大立ち回りをしたから、体のあちこちに打ち身やら擦り傷やらもできている。
重症なのが右腕だ。
折れてはいないが、ひどくひねられたせいか、青黒く腫れていた。動かせぬことはないが、痛くてたまらない。どこかで心得のある者に診てもらわないとまずそうだ。
「とりあえず、体を洗い服を替えるかの」
痛みをこらえて行李を取りに行き、戻ってくると、玲は泥まみれの服を脱いで泉に体を沈ませた。
汚れを洗い落とし、右腕以外に大きなケガがないことを確認する。
脱いだついでと、行李から薬を取り出し、打ち身や擦り傷に塗り込んでおく。
「これは……いかんのう」
だが、右手の痛みがひどくて、服を洗うことはできなかった。ずいぶんと汚れていて、左手だけでは汚れが落ちない。すでに神は去ったとはいえ、神域の泉で泥まみれの服を洗うのもはばかられた。
だが、替えの服といえば、巫女服しかない。
「あれは悪目立ちするから、嫌なんじゃがのう……」
どうしたものかとため息をついたとき、山の向こうから太陽が顔を出した。
まばゆい太陽の光に目を細め、その温もりにほっとする。
「今日は晴れそうじゃな」
洗濯ができれば乾くものを、と手をかざして空を見上げた時。
ガサリ、と草をかき分ける音がして、「なんと!?」と叫ぶ男の声がした。
「え……」
慌てて両手で体を隠し、声の方を振り向くと。
「まさか……天女殿の水浴び中、か?」
そこに、大柄な若い男が、剣を手に呆然とした顔で立っているのが見えた。