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バッターズボックスまでの遠い距離

作者: 津木林洋

 福島に移動する日、高井戸宏はチームから離れ、弁護士の所に行った。ペナントレースが終わるまで待ってくれと高井戸が頼んだにもかかわらず、妻が離婚裁判を起こしたからである。高井戸が娘の親権を絶対に渡さないと主張したため、離婚調停はうまくいかなかったのだ。

 弁護士の話は厳しいものだった。離婚の原因が高井戸の暴力であるため裁判に勝つことは難しいと弁護士は言い、暗に、親権を放棄して離婚に応じたほうがいいようなことを匂わせた。しかし高井戸はそれを拒否して、よろしくお願いしますと頭を下げた。

 高井戸は控えのキャッチャーだった。去年は正捕手として三十試合ほどマスクを被り、偉大な先輩が引退した今年はレギュラーになれるはずだった。マスコミもそのように書き立て、周囲も当然そのように見た。三十四歳にしてようやくレギュラーの座をつかんだと高井戸は思った。それが今年入ってきたルーキーに奪われてしまったのだ。

 鳴り物入りで入ってきた大物ルーキーに不安を覚えたのは確かだった。しかしキャッチャーというのは経験がものをいうポジションなので、ポッと出の新人なんかに簡単に務まるはずがないと思っていた。キャンプに入って、監督にルーキーの教育係を命じられたが、高井戸は知らん顔をした。自分の首を絞めるような真似ができるかと心の中で吐き捨て、知りたかったら自分で見て覚えろとルーキーに言ったきり、後は一切話をしなかった。

 だが、オープン戦に入ると、高井戸は才能の違いを見せつけられることになった。ピッチャーのリードに関しては高井戸の方が一日の長があったが、打撃センス、送球の速さに関してはルーキーの方が遙かに上だった。比べようがなかった。高井戸はあせり、何とか結果を残そうとしたが、かえって力んでしまい、オープン戦の成績は惨憺たるものになった。

 高井戸の酒量が増えたのは、その頃からである。もともと酒好きだったのが、試合の前日でも深酒をするようになり、正体不明で帰宅することも度重なった。レギュラーの座をルーキーに奪われた悔しさもさることながら、自分の野球人生の先が見えてしまったことが高井戸には堪らなかった。この歳になって他のチームに移ったとしてもレギュラーになれないことはわかっているし、今からいくら努力してもあのルーキーに近づくことさえ不可能なこともわかっている。高井戸は神が人に与える才能のどうしようもなく不公平なことに怒り、その矛先が妻に向かった。娘に手を挙げなかったことだけが救いだったが、妻を殴るところを見ていた娘が怯えたように高井戸を見るようになったのが辛かった。


 山手線のホームで高井戸は東京行きの電車を待っていた。ベンチに坐っていても誰も高井戸に気づかない。チームで移動している時は声を掛けてくれる人もいるが、こうして一人でいるとただのおっさんにしか見えない。高井戸は腕を組んで、目をつむった。

「すいません……」駅の騒音に混じって、小さな声が聞こえてきた。しかし高井戸は自分に向けられたものではないと思って、そのまま目を閉じていた。

「タカイドセンシュ?」

 高井戸ははっとして目を開けた。少し離れた所で、高井戸のチームの帽子を被った少年がこちらを窺っている。

「あ、やっぱり高井戸選手だ」

 少年はおずおずと近寄ってくる。高井戸は少年に笑いかけた。

「あのう、サインしてもらえますか」そう言うと、少年は帽子を取って差し出した。あいにく書くものを持っていない。

「何か書くもん持ってる?」

 高井戸が尋ねると、少年は帽子を高井戸の手に残したまま、ホームを駆けていった。見ると、少年は一人の女性の側に行き、何か話している。女性がこちらを見て、会釈をした。高井戸も小さく頭を下げる。女性は少年の話し掛けに対して首を振り、少年の手を引っ張るようにして向こうに歩いていく。そのうち人影に隠れて見えなくなった。

 どうなってるんだと思いながら、高井戸は手に持った帽子を見た。買ってもらったばかりなのか真新しくて、どこも汚れていない。

 少しして少年と女性が姿を見せた。二人してこちらにやってくる。女性は高井戸と同じくらいの年齢で、少年の母親であることは顔を見ればすぐにわかった。

「こんなものでよろしいでしょうか」と母親は袋に入ったサインペンを差し出した。

「あ、上等です」

 高井戸は受け取ると、袋を破ってサインペンを取り出した。

「どこにサインしてほしい。こっち? それともこっち?」高井戸は帽子の外側とつばの内側を示した。

「こっち」少年は帽子の外側を指さした。

「いいの、ここで? これまっさらだよ」

「いいです」

 高井戸は膝頭に帽子を被せ、字がかすれないようにゆっくりとサインペンを動かした。その後に、いつもはしないのだが漢字で「高井戸宏」と書き入れた。

 帽子を返すと、少年はサインを繰り返し眺めてから「ありがとうございました」とお辞儀をした。そして大事そうに帽子を被った。

 サインペンを母親に返すと、「ご無理を言ってすいませんでした」と母親は恐縮した顔で頭を下げた。

「体大きいけど、小学生ですよね?」

「四年生です。今リトルリーグに入っているものですから」

「どこ守ってるの」高井戸は少年に尋ねた。

「キャッチャー」少年は恥ずかしそうに答えた。

「おお、ぼくと一緒だな。キャッチャーって大変だけど、面白いだろう」

「うん」

 うんじゃなくて、はいと言いなさいと母親が叱った。

「プロ野球選手になりたい?」

「うん……はい」

「そうか。うんと練習したらなれるから頑張って」

「はい」

 母親が、ほら、もう一度お礼言ってと少年の頭を押さえ、少年は、ありがとうございましたと口の中で呟いて頭を下げた。母親も頭を下げる。

 遠ざかる二人を見ていると、少年が振り返って手を振った。高井戸も笑いながら、掌を小さく振った。母親が少年の腕を取って手を振るのを止めさせ、何か言った。すぐに「でも、去年はサヨナラホームランを打ったんだよ」と抗議するような口調の少年の声が聞こえてきた。母親は少年の腕を引っ張って、足早に歩いていった。

 母親はあの選手誰とか何とか言ったのだろうと高井戸は思った。あるいは、今年全然活躍してないじゃないと言ったのかもしれない。その通りだと高井戸は苦笑した。しかし少年が去年のサヨナラホームランのことを覚えていてくれたことが嬉しかった。せめて娘があのくらいの年齢になるまで現役を続けていられたら、プロ野球選手としてのおれの姿を覚えていてくれるのにと思ったが、それには四十歳までプレーしなくてはならない。それにそんなことよりも自分の手許から手放してしまえば、父親としての姿さえ忘れられてしまうかもしれないのだ。

 高井戸は大きく溜息をついた。


 高井戸のチームが主催する地方試合は、ホーム球場でやる時よりもずっと観客の入りが多かった。その熱気に押されるように試合は激しい打撃戦になり、延長に入ってもなかなか決着がつかなかった。

 高井戸は、10回からダッグアウト裏でバットスイングを繰り返していた。野手を使い果たし、代打要員として残っていたのは彼一人だった。

 12回の表に1点を取られ、裏の攻撃は6番からの打順だった。高井戸は誰か塁に出てくれとテレビ画面に向かって祈った。9番のピッチャーのところには必ずおれが代打で出される。その前に終わってくれるな。

 高井戸の祈りが通じたのか、7番がショートゴロエラーで1塁に出た。打撃コーチが高井戸を呼びに来る。

 高井戸はバットを持ってダッグアウトに戻った。観客席にはまだ大勢のファンが残っていた。次の打席は高井戸からレギュラーの座を奪ったルーキーだ。ファンの大きな声援がルーキーに飛んでいる。

 監督を見ると、人差し指をグラウンドに向けた。高井戸は短い階段を踏んでグラウンドに入り、ネクストバッターズボックスに立った。バットに重りをはめ、二、三度素振りをする。

 ピッチャーが投球動作を始めると、高井戸は素振りを止めた。打つな、打つな、三振しろ。高井戸は心の中で叫んだ。打ってもシングルならいい、ダブルプレーなんか食いやがったら許さん。

 初球を見送った後、二球目をルーキーが捉えた。乾いた打球音と同時に、わあっという歓声が上がる。高井戸は打球の行方を見詰めた。いかん、やられたと高井戸は思った。しかし打球はフェンスのわずか手前で失速し、大きなセンターフライで終わった。球場は溜息に包まれ、高井戸の名前を読み上げる場内アナウンスもかき消されてしまった。

 一発頼むぞという誰かの声が聞こえたが、声援はそれくらいで、場内はまだ先程のセンターフライでざわついている。

 ここで逆転サヨナラ2ランを打てばテレビのスポーツニュースで流れるなと高井戸は思った。女房も娘も見るかもしれない。たとえ見てても離婚の逆転打にはならないかもしれないが、ここは一発狙ってやるか。

 ふっと、ここでホームランが打てたら、娘を手放そうかと高井戸は思った。何かを犠牲にしたら、神様が打たせてくれるかもしれない、そんな気がした。

 高井戸はバットを持ってバッターズボックスに向かった。いつもは近く感じる距離がきょうは遙かに遠いように感じられ、高井戸は一歩一歩土の感触を確かめるようにゆっくりと歩いていった。

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