胸の中にあるものは
薄暗い廊下を歩いていると、時折胸がつかえて仕方がない。
別に昼食を食べすぎたわけでも、得意先の意地悪な担当にいじめられたわけでもない。なんでもないある日の廊下で、ふと胸にしこりができるのだ。まるで食道の壁がせり上がって、私の息の根を押し殺そうとしているかのように、舌が、喉が悲鳴を上げる。同時に肺腑も破裂しそうになるのだからたまらない。飲み込もうとして飲み込めず、吐き出そうとして吐き出せないそれは、じわじわと私をどこか別の場所へと追い込んでいく。
必然、それは精神的な圧力に留まらない。この厄介なしこりは身体的な反応としてもしっかり外界にフィードバックされるわけで、私は追い立てられるように座る場所を求めて廊下をさまようことになる。それはまるで、求める先もなく長いこと放浪するモーセの民のように、味気なくみっともない眺めなのだろう。
どこのオフィスビルもそうなのだろうが、私の会社の廊下にはベンチがある。ちょっとした休憩スペースにもなっていて、自販機と灰皿がちょこんと置かれているのだ。そこへふらふらと行き着いた私は、すがりつくように自販機でコーヒーを買う。缶コーヒー、1つ150円。コンビニで買うよりも少し割高だが、贅沢は言えない。プルタブに指をかけるのももどかしく、ぐいと一気に干す。同時に鉄臭い苦汁が舌を滑り降りて、食道からつるりと胃へ流れ込んでいくのだった。
無糖とは名ばかりの甘苦いそれを飲み干すと、不思議なことに、今まで皺を寄せていた胸中が一気に解き放たれる。カーテンを開けたようにというのか、拭い去られるようにというのか。たった185グラムのまずいコーヒーに、胸のしこりはいとも簡単に溶かされてしまう。後にはひんやりとした喉の感覚だけが残るばかりで、胸骨を内側から押すような圧迫感は影も形も消えてしまうのだった。
とはいえ、それは気分だけの話だ。実際に身体にあらわれている症状はどうしようもなく、しばらくベンチで休むのが常である。空になった缶を額に当てて、ワイシャツの首元を緩める。行儀の悪い姿は、実は少しだけ座りが悪い。それでも息ができなくなるよりはマシというもので、事実私の体調は加速度的によくなっていくのだった。
しばらくそうしていると、律動的な足音が廊下から聞こえてくる。かつん、かつんと打ち鳴らされるヒールの音。それがだんだんと近づくごとに、私の胸はそれまでと違ったものに締め付けられていく。
「またお休みですか?」
微笑みを含んだ声がつむじを打ち、それは最高潮になった。「まあね」というばつの悪い笑顔をなんとか絞り出して、傍らに佇む声の主に半身を向けた。
胸元に降りた髪はきれいなブラウンで、形のいいうりざね顔を一段と美しく見せている。きりりとルージュを引いた唇の端はお手本のように吊り上がり、とろんと落ちた目許とは違う引き締まった印象を与えていた。見るからに仕事のできる女。「コーヒーばかり飲んで」という苦笑にも隙がない。
「横、失礼していいですか?」
返事は聞いていないのだろうな、と少し詰めると、彼女はすんなりと隣に収まってしまう。利き手側――額に添えている方ではなかったのが唯一の救いだろうか。少なくとも、彼女に不用意に触れずには済む。ふふ、と笑む微かな声が私の耳をくすぐり、仄暗い廊下に溶けていく。その流れで、私の背筋には見るも無残な鳥肌が立っていた。
彼女の所作にはいつも心臓を跳ねさせているが、なにより声がいけない。白い喉からにじみ出る声が私の脳髄を揺らし、セロトニンだかドーパミンだかを放出させているのだろう。それらが血管をぐるぐると回って私に悪さをしているに違いない。きっとカフェインも作用しているのだと勝手に決めつけて、いい加減温くなり始めていた缶を額から下ろす。
「そういえば、例のプロジェクトってどうなったんです?」
ぐいと伸びをしたタイミングで、耳元に声を放り込まれる。頭の位置関係でそう聞こえただけで、彼女はふと口にしただけなのだろう。それでも私には囁かれたように聞こえてしまい、びくりと肩を跳ねさせてしまう。
これだ。女に慣れていないわけではない――慣れているわけでもないが――のに、まるで生息子のような反応をしてしまう。だというのに頭だけは回る。「順調だよ」という声を少しオーバーに上ずらせることで、不自然さを冗談のように演出してみる。「変なの」と笑ってくれた彼女に気をよくして、私はひょいと立ち上がった。
びっくりさせられ、どきどきもさせられ、それでも彼女には元気をもらえる。胸に何かが詰まるのも、まずいコーヒーを飲み干すのも、ほんの少しでも彼女と交わるためなら甘受できるというものだ。これといって仲を進展させたいわけでもなし、私にとっては廊下の片隅での逢瀬で十分だった。