朝のいっぱい
鼻をくすぐるのは馥郁たる黒。ベッドサイドに置かれたデミカップは、茫洋としたすべての中でも確実に存在している。リストレット。私にとってはコイツの香りが最もよい目覚ましだ。熱々の滑らかな液体をいただく。苦味よりもコクが強い、眠気を一発で拭い去ってくれるいつもの味。神経がスパークをあげて繋がり始める。濃い味にビンタされているような感覚を楽しみながら、私はカップと着替えを手に寝室を出る。
朝の支度で重要なのは迅速さ。僅かでも躊躇いを介在させてはならない。起床、シャワー、そして朝食。私を社会的動物たらしむるための儀式。ぬるいお湯で寝床への執着を洗い流し、少しだけ残したカフェインを飲み干す。ワイシャツとスラックスに身を包んだ私は、軽くうがいをしてからダイニングに足を向けた。
「おはよう」
スクランブルエッグを持った大義そうな声に、同じくカップの声を返す。数年を共にしてきた彼女は、はじめての朝と同じ調子で料理を並べ始めた。トーストとサラダ、スクランブルエッグ。お好みでスープとドリンク。いま身につけているのが戦闘服だとしたら、これはきっと戦闘食だ――それもとびきり上等な。これをむしゃむしゃやりさえすれば、私はこの日1日をなんとかこなしていけるのだ。
それは同時に、食べ始めた瞬間から後戻りはできないということでもあった。程よい焼き加減のトーストをかじりながら、頭の中がフォーマットされていくのを感じる。砂糖とミルクでパッケージした2杯めの気付け薬は、きっと彼女の気遣いだ。1杯めはどぎつく、2杯めで優しく。まるで調教だが、彼女にされるなら悪くない。
「何時頃帰ってこれる?」
当の彼女はこちらを伺うでもなく、ベージュ色をマグにぶちまけながら呟く。私のマグと同じ色、いっそカフェオレと呼ぶほうがしっくりくる。苦くはないが、きっとこちらのほうがお腹には優しい。トーストをほろ苦い愛情で飲み下して、私は微笑む。
「いつも通り19時頃かな。連絡するよ」
帰宅を請われただけで、すでに仕事を終わらせた気になっている。ルーティンを組まないと大人になりきれないというのに、ずいぶん現金なものだ。だらしなく笑う私を無視するでもなく、彼女は手にしたポットを私の方に向けてくる。私はありがたくおかわりを頂戴して、わくわくとした慢心を飲み込むことに専念するのだった。
惚れた弱み。結局はそこに収斂する話でしかない。彼女にすげなくあしらわれても、それでいてこちらの呼吸を読み切られていても、私はなにも言えないのである。おかわりを飲み干して、また注がれて。そうこうしつつスクランブルエッグをかき込む私に、彼女はそっと屈み込んだ。
「今日は、できるだけ早く帰ってくることをおすすめします」
耳元にそう囁いた彼女は、そのままキッチンに消えてしまう。ポットをダイニングに放置して、こちらを一瞥もしない。気ままというのかフリーダムというのか、ああいう飄々としたところがなんともたまらない。「ごちそうさま」と手を合わせて、流しに皿を下げる。マグにはそのままカフェオレもどきを流し入れて、私は出勤の準備をはじめた。
といっても、することは限られている。バッグインバッグを鞄に放り込んで、細々した手回り品を身につけるだけ。彼女のコーヒーは欠かさずタンブラーに入れて、余ったスペースにコーヒーチェーンの空ポットを数点。さくさくと準備を終えた私は、歯を磨いてからジャケットに袖を通す。
「いってらっしゃい」
ジャケットを着終えたタイミングで現れるのも毎朝の話。表情に乏しいのも、慣れてしまえばかわいいものだ。「いってきます」とこちらは満面の笑顔で応えて、細い腰を抱きすくめる。う、と詰まったように身体を固くする彼女は、コーヒーの匂いを感じ取ったのだろうか。呻くような「歯磨いた?」という声は、私の胸のあたりでくぐもっていた。
「磨いたさ、そのあと飲んだけどね」
半眼になったのだろう彼女に「うまいコーヒーが悪い」とかぶせて、腕を解く。思った通り目を細くした彼女は、ため息もつかずに私を土間へ押しやり始める。
「とっとと行く」
「すげないなあ。あ、コーヒーもらっていくね」
「わかったから行ってきなさいジャンキー、晩ごはんまでには帰るのよ」
足はヘラで革靴に押し込み、小柄なのにどうやってかドアまで開けて、私を外に追い出す。ぴしゃりと閉められたドアに苦笑して、私は職場へ足を踏み出した。
彼女はふた言以上喋らない。それくらいのことは、私にもわかっていた。