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【昭和の日企画】萩野古参機関士 甲種回送

 無駄に重い乗務鞄を手に機関車に乗り込む。今回は急行貨物扱いで甲種回送をする。甲種回送、とは新車を任地に運ぶ仕事だ。毎日の手入れをしすぎて塗装が剥げ、下地の赤い錆止めが剥き出しになったD51に連結された新車は、ピカピカに磨きあげられた、特急色に身を包んでいる。黄色じみたようなクリーム色に、それを引き締める赤い帯。くすんだ機関車がさらにくすんで見える。


 注油作業を(ことごと)く終えて、再び運転台に戻る。近頃は萩野さんは教えることはもうないとばかりに、助士席に座ってぼんやりとタバコを吸っている しかも服装改正によって、真新しい菜っ葉服に身を包んだその姿を見ながら機関士席に着く。逆転機は前進フルギヤ。そしてドレーン・バイパスは閉鎖してブレーキの緩解試験を行う。そして 出発出発信号機はそうだ、進行現示。

出発合図はまだまだ出ない。安全弁が噴き、発車準備が終わった。視線を感じてふと外を見ると、少年達がこちらをまじまじと見ていた。新性能電車、しかも特急電車を蒸気機関車が引くのだから、面白いのだろう。少年達はどこかに行ってしまった。


 発車合図を確認して、発車させる。新性能電車、それは軽量化された車体を持ち駆動方式も変わった次世代の電車だ。いくらか軽い。しかし車両同士は密着連結器で繋がっているから、牽き出すのが少し難しい。ズルッという空転の予兆を感じて逆転機(リバー)を引き上げる。なんとか線路を噛んでくれたようで、踏ん張って走り出す。また空転の予兆。

 ドレーンを切りながら身を余計に乗り出す。視界が蒸気に遮られるから、僅かな差異だとしても視界を得るためだ。そのときにドレーンの蒸気を透かして黒い動くものが見えた。咄嗟に非常ブレーキまで掛ける。そこまで速度が出ていないことと、牽いているものがそこまで重くないことで四〇メートルちょっとで止まれた。そのときに見たのは、さっきの少年達が機関車にさわろうとしているところだったようだ。動く機関車にさわるという度胸試しのつもりかもしれない。すぐに助役さんが飛んできて少年達を追いたてる。再び発車するが、なにぶん連結器が伸びきっているから余計に難しい。また非常ブレーキは緩解にかかる時間が長い。なにぶんブレーキ管の空気が抜けきっているからだ。

 やっと列車の最後尾が駅を離れた。


「後部オーライ」

「後部オーライ‼」

「後部オーライ、三分十一秒の遅れ‼」


怒号にも似た喚呼の声。こうなると回復できるまで速度をあげて引っ張って行かねばならない。加減弁を全開にしながらどこまで引っ張り、どこで閉めるか打ち合わせる。打ち合わせに掛ける時間は三十秒もない。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 真正面に夕陽を見ながら運転している。眩しいことこの上ない。だいぶ煽りながら走っている。時時線路を横断する近所の人がいて肝を冷やす。そろそろ途中駅だ。通過するけども。


「本線場内、進行!通過、オーライ‼」

「本線場内、進行!通過、オーライ‼」

「本線場内、進行!通過、オーライ‼」


黒々と塗られたカラス列車、こと貨物列車を追い抜く。急行貨物故の事だ。旅客列車には道を譲るが。分岐器にのってガタガタ揺れる機関車。ガラスがビリビリと音をたててゆれる。ここは本来どんな急行列車も止まる駅だけれども、それを通過して行く心地よさはきっと機関士にしかわからない。


『後部オーライ!』

「後部オーライ、二分四十三秒遅れェ‼」


  なんとか三十秒は取り返した。あとの二分四十三秒、正念場だ。暴れ馬のように激しさを増して揺れる運転台(キャブ)を乗りこなすのが仕事だ。機関士も機関助士も機関車という名の巨大なエンジンを構成するひとつの部品にすぎない。

 えげつない紫色の夕闇に追われるように走る。油を溶かしたようなその闇から煙を後方に置き去りに、まだ残る残照を目指して。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 いつになく萩野さんはぼんやりしている。二度三度、『前方確認‼』と喚呼するまで前を見なかったり、逆にすれ違う気動車に警笛を鳴らされるまで身を乗り出していたりした。とうとう耄碌(モウロク)でも入ったかと何時もなら自分からそのようなことを自嘲気味に言うのだが、それすらもない。上の空、とまではいかないが、何だか心ここに在らずという感じだ。

 残照も消え去り墨を流したような夜の闇に、砂糖のように溶けてゆく煙。目の前に見える通過駅。駅のホームの端にはマニヤだかが大きな三脚をたてて撮影をしている。それやこれやを振り払って通過する。


「後部オーライ‼」

「後部オーライ、一分二十五秒遅れ‼」


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 甲高い気動車の警笛とそれに答える汽笛。そして橋梁。そしてその橋梁の向こうには、これまでの区間とは異なる町明かりが連なり始める。町明かりが見え始めたら、次の駅まであと少し。その先から国電区間だ。閉塞は狭くなり、信号も踏み切りも嫌がらせのように増えてくる。そこまでには定時(マル)に戻したいところだ。

 駅手前の速度制限表示に合わせて速度を落とす。加減弁も逆転機も絞らず、ブレーキだけで速度を制御するものだから、ブレーキの制輪子が削れて、鉄粉を撒き散らす。重苦しい擦過の音、そして外を流れるホームの人、人、人。


「後部オーライ‼」


時計を指差してその時刻を見て、視線をそのまま右にある仕業表に移す。


「後部オーライ、はい、テェージ‼」

「定時、定時になったか!?」


 上を走る架線(ガセン)。そしてすれ違うのは気動車ではなく電車になった。踏み切りが降りていることを知らせる踏切警手の合図灯。そして信号の明かりと町明かりが入り交じる。ここからは軽い下り坂だ。


「閉めーる!」

「閉めーっ‼」


左手で逆転機を引き上げながら右手で加減弁を全閉にする。逆転機を前進フルギヤまで今度は落としながら、左側の壁面についたドレーン、バイパスのコックを右手のひらで触れる。シリンダ圧力計の針の降下がある程度行ったところで、ドレーン、バイパスを開く。あとは惰力で転がって行ける。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 外には不夜城もかくやとばかりに煌めくネオンサイン。その谷間を暗闇のような線路が走る。必ず乗務の度に新しい軍手をしているにも関わらず、それは繊維に入り込んだ煤と油滴で黒々となっていた。そして多分顔もそうなっていることを経験的に知っている。まばゆいネオンサインの明かりに煌々と照らされて、その己のくすみを思い知らされているのは自分たち機関士、機関助士だけではない。きっとこの機関車もそうだろう。


 電車区に入る引込み線に進入する。重量物を押し留める為の重苦しくて耳障りな音。よってくる電車区に勤める職員。ちなみに電車区にある風呂は使わせてもらえない。まあ、洗えど洗えど湯船が真っ黒になる罐の機関士連中と、全然そんなことはない電車の運転士連中ではなかが悪い。

 ついでに電車区には転車台はない。だから、帰りは逆向(バック)運転になる。電車は両端に運転台があるから、向きを変えると云う手間が無いのが大きい。各部に油を差しながら、軸焼けはないか見て回る。軽やかな空気圧縮器(コンプレッサ)の動作音。運転台に戻ると、機関士席には、萩野さんが座っていた。


「――?」


「ナァ、俺が幾つかわかるか?」


「―?」


「俺はそんな若くはネーよ。来週に55だ。定年だよ、もうな。今日が最後なんだ。あとは俺に運転(ころが)せろ」


 萩野さんが定年?想像もしたことがなかった。しかし、いつも急行列車を牽引していた萩野さんの最後の運転が、単機の流しで、しかも逆向運転。何だか釈然としない。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 あと数本の信号を読めばいい。炭水車の手摺と機関車の雨樋縦管に捕まりながら大きく身を乗り出して信号を見るのは大変だった。


 気がつけば萩野さんのありとあらゆるところを見ている自分がいる。菜っ葉服から覗く汗だくで、日と火に焼かれたその首筋、汚れた軍手に包まれたその手を。シワの刻まれて尚も凛としたその顔を。真っ黒に汚れたそれの美しさを。その理由はわからない。魅了されたとも言えるのだろうか?


「そんなに見つめてくれるな、照れるだろうが。」


苦笑混じりのその声。不可思議な感覚が胸中に去来する。自分にすら説明のつかないこの感情は、なにも教えてくれない。意地悪な感情だ。隠れておきながら、その姿を当ててみよと言う。

 悩みを掻き消すためにまた身を乗り出す。本当になんなのだろうか、この感情は。

そもそも見習機関士に甲種輸送なんか任せるのか?と言うことは突っ込まないでくれるとうれしい。まあ、あれだよ、時期的には動力近代化が進展してきている状態なので、転換教育を受けている人が多いのだと言うことで御容赦ください。


萩野さんが定年退職されましたが、本編的にはあと一回、続きます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] かっぽうの萩野さんのアニメ化の件から飛んできてしまった。 癒されました。 ありがとうございました。 萩野さんが照れてる。カッコいい。 やっぱり閣下の書く小説は、カッコいいよ。 私をすぐ…
[良い点] これが現代では、このような情景は生まれなかっただろうと思います。 時代の移り変わり、そして蒸気機関と新型車両の移り変わりが登場人物の心情と関連付けられているようで興味深かったです。 楽…
[一言] ただただ、カッコ良いです。
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