序章(7/12)アウグストゥスとの出会い(2/3)
アウグストゥスさんは優しいと思う。
一歩踏み入れると、近代的なマンションなのに、まるで廃墟のような古臭さを感じた。なぜなら、埃が満ちて、真っ白な壁紙も今はすすけて、ところどころに錆が目立ったから。
「清掃人を雇う金も今の私には惜しい。我慢してついてこい」
アウグストゥスさんは階段を上る。僕はそれに付いて行く。
「あの? どうしてエレベーターを使わないんですか?」
「雷、お前の世代でいう電気が無い。全く、それが必要なら教えてくれればいいのに」
電気が無い? いや僕も停電とか経験しているから分かるけど、教えてくれれば? そう言えば、神様という彼女は、何でも好きなだけ願っていいと言った。それで勝てるとは限らないと言い切ったけど、なんか奇妙だ。だってマンションに電気が無い? 普通あるんじゃないの?
「えっと? それって発電機が無いんですか?」
「発電機? 何だそれは?」
アウグストゥスさんはずかずかと無視する様に速足で階段を駆け上がる。
「その、電気を生み出す機械です! ちょっと速いです! 待ってください!」
「私の時代には無かったものだ。ポンプも無いから蛇口を捻っても水は出ない。ガスも無いから火はでない。あの神! 願いを叶えると言って起きながら、それに必要な物を用意していないじゃないか! これではこのマンションとやらもただデカいだけの張りぼてだ!」
アウグストゥスさんの後姿を見ていると、たった一人でこの階段を上がるのが慣れてしまったんだと感じた。迷わない足取りでそう思った。
「まあ、この国には水道も燃料もプロパンガスも無い。たとえそれらが有ってもここに送るインフラが無いし、私は作る術を知らない。だからたとえ発電機も貯水槽もプロパンガスがあってもいずれこうなる。しかし文句を言うな。ここは枯れても私の家だ」
その言葉は、運命を受け入れ、それでもなお素晴らしい未来を掴もうとする、疲れ切った英雄の姿だった。
「憐れむな! 私はアウグストゥス! ローマ初代皇帝! お前のような凡人と一緒にするな!」
階段の上から見下ろされるとまさに僕は虫けらの気分を味わえた。
「ご、ごめんなさい!」
「不愉快だ! 謝るな! さっさとついてこい!」
まだまだ長い階段を上りながらアウグストゥスさんは憎らし気に呟く。
なぜ僕はここに居る? 何を期待している? 僕が救われると? バカらしい! さっさと死ねばいい!
「今は死ぬ気も無いのにそんな薄汚い思いを抱くな! 吐き気がする!」
やっぱりアウグストゥスさんは天才だ。なぜ僕が生きた世代に居なかったの? 僕はその言葉を聞ければ、もっと早く死ねたのに?
アウグストゥスさんが足を止める。
「すまない。君を傷つけてしまって。私もイライラしているんだ。許してくれ」
許します。前の世界もそうしなければ生きていけなかった。
アウグストゥスさんは再び憎らし気な表情になる。
「だが君は死んだ。全く、心が読めるとなるとお前ほど不愉快な存在は無い」
ああ、僕は階段で立ち止まり、頭を下げるしかない。
「ごめんなさい」
アウグストゥスさんの乾いた失笑が階段に響く。
「もう良い。それより、そろそろ私の自宅だ。せめて礼儀を尽くせ。私だけの城なのだから!」
それから無言で、無心で、アウグストゥスさんの家へ入った。
アウグストゥスさんの自宅は意外にも清潔だった。埃こそ、そこそこ隠れているものの、客人に失礼が無いようにと最低限の清潔さを保っている。
「ゆっくりした前。私はワインを飲んでいる。それまで私の偉大さを味わいなさい!」
ソファーに(もう驚かない)にどかりと座るアウグストゥスさんを忘れて、思わず壁画に苦笑いする。
「これ? アウグストゥスさん?」
「良く気付いたな!」
こんな部屋の片面1/4も天領している絵に気づかない方がおかしくない? まあ嬉しいなら良いけど。
「まあ、腕の良い職人に大枚払って描かせたからな。今の私に似ている! 目を奪われるのも当然だ」
やたら自分の容姿を自慢するアウグストゥスさんを見て、ふと逸話を思い出した。
「アウグストゥスさんって僕が居た世界だと禿だったんじゃ? それにガッチリした体格をしてたんじゃ? 実物を見ると全然違うけど?」
「誰が禿だこの野郎!」
アウグストゥスさんは飾ってあった片手剣を掴みとると僕の目前まですっ飛んできて切っ先を向けた!
「良いか! 私は歴史上類を見ない美男子だった! 今の体の様にスマートだった! だから元老院の妻たちはおいぼれた! 不細工な夫を見限って私に股を開いた! そもそも禿ではない! ただちょっと薄かっただけだ! それが誇張されて禿などというふざけた戯言にすり替わった! 言っておくが薄かったとしてもちょっとだ! 政敵はそれで私を嘲笑ったが、女たちは気にもしなかった! だからそいつらの妻も私に股を開いた! 困ったものだ! まさかその娘までも股を開くとは! どうだ! この事実を聞けばお前の言葉が失言だったことが分かるだろ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
怖い怖い怖い! 何でこんなに必死なの! まさか本当に禿? まさかその容姿は神様の彼女にしてもらったの?
「そんな訳あるか! 私は永遠に美男子だ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
ハアハアと息を切らせながらもアウグストゥスさんは剣を下ろしてくれた。助かった。
「お前童貞か?」
息を整えていると、剣を元の位置に戻したアウグストゥスさんは突然聞いてきた。
「えっ? そうですけど」
事実なので頷く。
しばし沈黙。そしてアウグストゥスさんの顔が不機嫌そうに歪む。何で? 僕事実を言っただけだよ?
「私がお前の年の頃はすでに卒業していた! 何人もの女が求めてきてうっとおしかったほどだぞ!」
それが凄いのか一瞬分からなかったけど、それだけの人に好かれていたということに気付く。
「僕嫌われてたし。それより、アウグストゥスさんは凄いですね! やっぱり大政治家だ!」
「バカ野郎! お前そこは必死に否定しろ! 煽った私がバカだろ!」
「何で怒ってるんですか? あの、意味が分からないんですけど?」
「もう良い! さっさと跪いて酒を注げ!」
アウグストゥスさんは棚からワインとグラスを取り出すと黙ってワインを渡してきた。そしてどかっとソファーに座るとグラスの口を僕に向ける。
「先ほどの続きだ。注げ。ただし、そこに跪いて、だ」
それはさすがに困った。
「あの、跪くのは良いんですけど、蓋開けてくれませんか?」
「自分でやれ!」
「あの、僕力が無いので。昔女の子に腕相撲で負けたくらいですから」
「分かったよ! 開けてやればいいんだろ! 全く、前の世界なら黙っていてもワインが注がれたのに、今は自分で蓋を開け、注げと命じなければならない! どうなってんだこりゃ!」
「あの、その、ごめんなさい」
「謝るな! よけい惨めになる!」
アウグストゥスさんはコルク抜きでコルク栓を開けると僕に手渡す。
「気を取り直そう。注げ」
僕はとりあえず言われた通り跪いて注ぐ。
「私がワイングラスの口をお前に向けたら無言で注げ。それがお前の仕事だ」
とりあえず頷く。
「承知しました」
アウグストゥスさんは僕を見て軽いため息を吐く。何か気に障るようなことをしてしまった? しかしアウグストゥスさんは僕の思いとは裏腹に、怒鳴らず、黙って書類に目を向けた。
アウグストゥスさんが書類を捲る音だけが部屋に響く。心臓が凍えそうなほどの静寂。せめて何か怒鳴ってくれれば謝るのに、どうして怒鳴ってくれないの?
「お前は、本当に、自分に、そして他者に、世界に、興味が無いな」
俯いて必死に耐えていると、アウグストゥスさんが静かに言う。顔を上げると、なぜか憐れむような表情と見えた。そして口を向けたワイングラスも。
「ご、ごめんなさい!」
「止めろ。自分で注ぐ」
アウグストゥスさんにワインボトルを引っ手繰られると、僕は蛇に睨まれた蛙、何をしていいのか分からなくなった。
「命じられなければ何もできない。良かろう、私の体面に座れ」
アウグストゥスさんの言うままに体面に座る。
「お前は、どうして私に尋ねない?」
手酌でワインを注ぎ、一口飲むと、アウグストゥスさんはじっと見つめてくる。
「あの……ごめんなさい」
「答えになっていないな」
「ごめんなさい!」
ごめんなさい! 謝ることしか知らないんです!
アウグストゥスさんのあきれ返ったため息が部屋に響く。
「少し酔った。だからついでに、お前に説教してやる」
アウグストゥスさんが前のめりに尋ねる。
「お前は世界を救う気があるか?」
「えっ? 僕には無理です……ごめんなさい」
「違うな。お前は無理やごめんなさいで誤魔化しているだけ。本当は救いたくないだけだ」
内臓がひっくり返りそうになる。何も言えない。やっぱり僕は悪だった?
「俺はもうお前の心は読まん。読んでも気が萎えるだけ。だから一方的に説教する。だから次に聞く。お前はどうしてこの世界の情勢に興味が無い? 世界を救いたくないとしても全く問題ない。しかし曲がりなりにもここは新たな生を得た新天地だ。気持ちを切り替えて謳歌してみようと思わないか?」
「あの……ごめんなさい」
「お前の仕事は謝ることのようだ。ならばもう口を閉じろ。あとは私の独り言だ!」
アウグストゥスさんはグッとワインを一気飲みすると再び手酌で、今度は並々と注ぐ。
「私が死んでからローマが滅ぶまでの時代、皆生きるために必死に情勢を把握しようとした。読み間違えや、予期せぬ事態で無為に終わることもあったが、それでも、私の息子たちは頑張った。ネロも、頑張った。ただ、不幸なだけだった」
離し終えるとグッとまた一気飲み。頬が桜色になる。
「お前の時代は、死んでもいいと努力しないで生きられる時代で幸せだ。私には理解しかねる。理解したくない! 死んでも誰も心配しない? 役に立たないから死んでいい? 冗談じゃない! そんな時代があるものか! どの世界でも有ってはならない! たとえ無力でも! 努力はしなくてはならない!」
「それはあなたが僕の時代を知らないからだ!」
ハッとしたようなアウグストゥスさんの表情で、僕はハッとする。
「良い啖呵だ。それだ! お前に足りないのはそれだ!」
大笑いをするアウグストゥスさん。恥ずかしい。
「恥じる必要は無い! 王の資格とは、政治家の資格とは、真の強者の資格とは何よりはっきりと断ずることだ! それでこそ相手は理解する! お前の真剣さを! お前の気持ちを!」
瞬きする。褒めてくれているのだろうか? ならば辛くて涙が出る。
「僕は一度だけ、両親に虐められているから助けてと断じたことがあった。でもダメだった。両親は確かに学校に訴えた。そして虐めた奴の両親と対面した。数分で、両親は僕が悪かったと、虐めた奴の両親に謝った。それで決着がついた。アウグストゥスさん? でもね? 僕はそこで謝った! だって両親が謝ったんだ! 僕が悪かったと思うしかない! だからアウグストゥスさん! 僕はその程度の存在なんだ! だから! ごめんなさい……」
涙が溢れて止まらない。何年ぶりだろうか? 思い出せないけど、気持ちが良い。
「思い切り泣け。泣くのも政治の一つ。心の、真心のこもった涙は民を動かす。だから泣け。泣き止むまで、私は酒を飲む」
アウグストゥスさんは隣に座ると僕の頭を撫でる。
「泣け、叫べ。その言葉こそ、私の聞きたかったことだ」
アウグストゥスさんはやっぱり英雄だ。決して涙を流さず、ただの埃である僕に涙を流させた。そして一度も、両親ですら撫でてくれない頭を撫でてくれる。
僕は思う。この人なら、騙されても、許せる。
たとえ僕を奴隷と思っていても、僕は受け入れる。




