序章(9/12)ハンニバルとの出会い(1/3)
「ここが俺の家だ。みすぼらしいが、誇り高きカルタゴの英雄、ハンニバルの自宅だ。歓迎するぞ」
そこはただの小屋だった。家畜小屋よりはずっとマシだけど、それでも、ただの小屋だった。
「本当にここなんですか? 正直そこら辺の農家よりもみすぼらしくて、あのハンニバルさんの自宅とは到底思えません」
だってここにたどり着く道は獣道だった。馬車は何度も揺れてひっくり返りそうだった。馬も死にそうなほど疲れているし、小屋の周囲は飼い馬の糞やその他の糞で悪臭が漂っている。鼻が曲がるを通り越して病気になりそうな異臭だ。
ハンニバルさんはそれなのに笑う。
「はっきり言うな。だが仕方ない。兵隊を雇うためには金が要る。贅沢は出来ない。それに、すぐ掃除するから臭いもすぐに収まる」
ハンニバルさんは馬車から降りると小屋の傍に立てかけてあるスコップと箒に塵取りを鼻を抓む僕に手渡す。
「俺は荷物を運ぶ。お前は掃除しろ。働かざる者食うべからず。何もないが、美味い熊の肉を食わせてやるからしっかり励め」
「熊の肉? 買ったの?」
「まさか。俺が取った」
「猟銃が使えるの? 紀元前生まれのあなたが!」
「使えん。だがそんなもの使わなくても、罠でどうとでもなる。俺はハンニバル・バルカ。畜生を罠にかけるなんざ容易いことよ」
「凄いな……さすが英雄、ハンニバル・バルカ。このうんこの臭いが無ければ拍手してたのに」
「喧しい! さっさと片付けろ!」
「何で掃除しないの?」
「従者が居れば掃除させている。だが今は俺一人だ。疲れ切ると臭いも気にならねえし、住み慣れるとどうでも良くなる」
「汚な! 何で英雄たちは僕の夢を壊すの?」
「喧しい! 俺だって綺麗にしたいけど、この家に帰ってくるのは数日ぶりだ! 文句言うな!」
「というかハンニバルさんの服、凄い黄ばんでる気がするけど? あとさっきから気になってたけど凄く臭いような? もしかして全く洗濯してない?」
「洗濯もくそも風呂にすら入ってねえ。そんな設備ねえからな」
「道理で臭いと思った!」
「何だいきなり! だいたい臭いのはジャンヌも沖田もアウグストゥスも同じだろ!」
「ジャンヌさんは香水かお香の臭いで、アウグストゥスは洗剤の臭いに消臭剤の臭い、沖田さんも服は汚れない様に毎日洗濯していると思うよ。新選組の錦は全く汚れてなかったから」
「全く! 戦のイロハも知らねえ奴らだ! 戦になったら臭いも何も気にしねえのに! 軟弱だ!」
「そう言う問題じゃないと思うけど? たぶんその服、古代ヨーロッパの服でしょ? たぶんカルタゴの民族衣装。洗濯したほうが良いんじゃない? 英雄が台無しだよ?」
「うるせえ! さっさと掃除しろ! 俺は荷物を運ぶので忙しいんだ!」
ハンニバルさんは大きな荷物袋を担いで中へ入って行った。
「とにかく掃除しよ」
スコップで木々の周りに穴を掘って、糞を投げ込む。それを三度繰り返すと額の汗が玉になって目に落ちる。
「そろそろ埋めよっかな」
休憩がてらに木陰で休む。夕暮れになっていた。あっという間、その感覚に笑ってしまう。
「何かあっという間だったな。学校だと放課後までまだかまだかって、一分ごとに時計をチェックしていたのに」
この世界に来て驚きの連続だった。過去の英雄に会えただけでなく、その人の人なりに触れられた。
「沖田さんとジャンヌさんに、もう一度会いたいな」
アウグストゥスさんとは腹を割って話し合えた気がする。大事なことは言ってくれなかったと思うけど嘘は言っていない。そもそも僕なんかに嘘を言う必要が無い。
「沖田さんとジャンヌさんは物別れみたいな感じしちゃったし」
ハンニバルさんとも腹を割って話し合えると思う。そうでなくては自宅に呼びなどしない。問題は沖田さんとジャンヌさんだ。彼らの思いを僕は何も聞かずに立ち去った。今思えば、もう一歩、聞き出せたかもしれない。
「僕はやっぱり、ダメな奴だ」
やっぱりアウグストゥスさんは良い人だ。虫けらみたいな僕から思いを絞り出してくれた。
「アウグストゥスさんが暗殺? 本当に? 何か理由があるんじゃ?」
僕はアウグストゥスさんが暗殺を企てるとは思えなかった。万が一事実としても、何らかのやむを得ない事情があったのではないか? そう思う。
「アウグストゥスのこと考えているな」
ぼんやりしているとハンニバルさんが僕の頭を撫でる。
「どうして分かったんですか?」
首を傾げるとハンニバルさんは失笑する。
「お前の顔で分かる。とても分かりやすい」
「そうですか?」
鏡など一度も見たこと無かったから気付けなかった。
「そうだ。今でも嫌な思いしてるって分かるぜ」
「嫌なのはハンニバルさんの体臭です! 風呂入って洗濯してください!」
ズザズザと尻に木のささくれが刺さるのも気にせず遠ざかる! 臭すぎる!
「お前! 高が2か月入ってないだけだぞ!」
「えんがちょー! えんがちょー! 古すぎる! つか汚すぎる! あっち行けこの不潔!」
「この野郎! 分かった! 洗ってくりゃ良いんだろ! ただしてめえもだ!」
「何で僕まで!」
「この冷たい川の水を浴びてまで風呂に入れっていってんだ! 俺と一緒に死ね!」
「近くの川は冬山の雪に通じている! だがアルプスよりか優しい! だから一緒に死ね!」
「死ぬのは嫌だ!」
「喧しい! 冷たい川で清めればてめえも気合が入るだろ!」
「死ぬのは嫌だ! せめて温かい水で眠るように溺死させてくれ!」
「うるせえ! 早く来い!」
「臭い! 不潔! 死ね!」
「良く言った! 今すぐ息の根止めてやるぜ!」
ハンニバルさんが僕をお姫様抱っこした! 臭すぎ! 体臭ヤバい!
「死ぬ! 死ぬ! せめて一思いに殺せ!」
「ハッハハハッハハ! 染みるか! 英雄の臭いは!」
「離してー!」
兎にも角にも僕はハンニバルさんの体臭に耐えながら小川へ運ばれた。
「ふー! 二か月ぶりの水は染みるな! 体中ひりひりするぜ!」
ハンニバルさんが皮の中で布で体を擦ると川が黒く染まる。
「汚な! 何だこれ! 汚水だよ汚水! 何? ハンニバルさんは綺麗な水を汚水に変える錬金術師なの? バカなの? 死ぬの?」
「うるせえ! お前も入れ! 意外と気持ちいいぞ!」
「どうしても入らないと駄目なの? せめてお湯で温かくしてよ!」
「喧しい奴だ! さっさと入れ!」
ハンニバルさんがつかつかと川から上がると首根っこ引っ掴まれて川に放り込まれた。
「冷たい! 死ぬ! 心臓発作! つか汚い! 何でまだ水が黒いの! 流れないの! それだけの垢なの! 死ぬの!」
「喧しい奴だ! 今服洗ってるんだ! しずかにしろ!」
ハンニバルさんが服をジャブジャブと洗うとまたまたそこを起点に真っ黒な靄が襲う!
「だから汚いって!」
一目散に岩陰に隠れる。
「お前は女か? 金玉取れたか? さっさと洗って出ろ! 布渡しただろ! 早く擦れ!」
「こんな雑巾みたいな布で体を洗う? 寝言は寝てから言ってよ」
「お前はどんだけ注文が多いんだ? レストランか? はたまたローマか! あいつらは風呂好きだった! ならぶっ殺してやる!」
「僕は日本人です! だいたい何であなたが宮沢賢治の作品知ってるんですか!」
「一応未来の文学も見たからな! しかしお前の世代はダメだ! 何がエロだ! 何が同性愛だ! そんなもの紀元前ならやりたい放題だ!」
「分かりましたよ! 全く、一度洗ってから体拭こ」
とにかくずぶ濡れの学生服を脱いで、布を洗って体を拭く。
冷たく、心臓が凍えそうなほど痛みが走ったが、気持ちよかった。
「完成だ。これが熊鍋だ。熊の肉のさしみもある」
「この匂い、味噌とわさび? 何でこんなのが? というかなぜハンニバルさんは全裸なの?」
「服なんて一着しかない。それを乾かしているんだから当然だろ?」
「もういいや。とりあえずその汚い物をブラブラしないで。タオル巻いてかくして」
「何でそんなことするんだ? まじないか何かか?」
ハンニバルさんはチンチンにタオルを巻き始める。
「ごめん。僕が悪かった。腰に巻いて」
「分かってる。さすがにこれは悪ふざけだ」
茶目っ気のある人だ。気さくに話せるのは、ハンニバルさんが生前政治家もやっていたからかもしれない。
「全裸じゃなければもっと良かったのに」
ため息を吐くと、腰にタオルを巻いたハンニバルさんはニヤニヤと対面に座る。
「お前実は女か? そんな大層な軍服着込んでもじっくり見れば、分かる。惚れたか?」
「バカなこと言わないでください!」
「誤魔化すな。顔が赤いぞ。まるで恋する女子の様に」
ハッと頬を触ると、確かに熱くなっていて、余計に恥ずかしくなる。
「違います! 僕はハンニバルさんと話せて良かったと思っています! だから興奮しているんです! あの歴史上類を見ないほどの軍師! それをまじかで見られて嬉しいだけです! 本来僕なんかが話せないほどの英雄ですから」
「英雄? まさか。俺はローマに敗れた。カルタゴに敗れた。そんな俺を英雄と呼んでくれるのか?」
何というか、自虐的なのに、すっきりした顔つきだった。
「英雄だと思います。だってあなたは2000年以上もの昔の人なのに、誰もが知っていた。とても羨ましい」
ハンニバルさんは何度か穏やかに頷く。
「色々話したいことはあるが飯にしよう。初めて作るが、多分美味い」
「初めて作るんですか?」
「本来獣を取ったら売っちまうからな。たまに食べるがいつも丸焼き。だが今日はお前という客人が来た。なら、ちょいとばっかし奮発して、鍋とか刺身とか作るしかない」
「このわさびとか味噌ってどこから手に入れたの? ていうかパッケージにマルコメとか書いてあるんですけど?」
「さてな。ただ、沖田総司と出会ったとき、土産に、調味料をもらった。多分、あいつが願ったものの一つのおこぼれだろう」
「沖田さんの?」
「余程日本という国が恋しいらしい。これらの調味料は、日本という国の味を忘れないためだろう」
「そっか。やっぱり沖田さんは、日本が好きなんだ。新選組が好きなんだ」
「おっと、煮えたようだ。お喋りは後にして、さっさと食おう」
ハンニバルさんが食器を二組持ってくる。
「ピカピカだ! お前召使の素質がある! しばらく俺んとこで働かねえか?」
ハンニバルさんは器を覗き込むと豪快に笑う。
「遠慮しておきます。僕はもう虫とかと格闘したくないんで」
何があったのかと言うと、川から上がるとハンニバルさんの家まで震えて帰った。そしてさらに戦慄した。中はゴミ屋敷同然で異臭が漂い虫が闊歩していた。さすがに発狂しそうになったので掃除した。そしてそれが終わると囲炉裏の前で震えた。そんななか、全裸のハンニバルさんが囲炉裏に鍋をかけて、コトコトと熊鍋を煮込み始めた。そして煮詰まるまでお話ししていたという感じだ。
「良い匂いだ。美味いのがすでに分かる」
ハンニバルさんは黙って器に熊鍋の汁と熊の肉を注ぐと、ずずっと汁を啜る。
「美味い。貰って良かった」
そして次に肉を頬張る。
「ふふ、何ともいい味だ。売っぱらっちまうのが勿体なくなっちまった」
さらに熊のさしみを一切れ頬張る。
「わさびという風味は不思議なものだ。美味い!」
ハンニバルさんはがつがつと本当に美味しそうに食べる。
「食えよ。美味いぞ」
「あ、はい」
ぼんやりと器に汁を注いで一口。美味しかった。
「なぜ泣く?」
言われて頬を撫でると、僕はボロボロと泣いていることに気付いた。
「あまりにも美味しくて」
僕は思い出した。
ここに来るまで独りぼっちでご飯を食べていたこと。
ご飯が美味しいなんて一度も思ったことなど無かったこと。
それがとても辛かった。
「食え食え。そうすりゃ涙なんてすぐに収まる」
「は、ハイ!」
僕は一心不乱に食べる。
「ああ、本当に美味しい!」
なんて幸せなんだろう!
ハンニバルさんは、やっぱり、本当に、良い人だ。




