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ハルベリーは午前中に執務を終え、昼食をとりながら伝説と化している獣王の城塞都市ユスタファムについて考えていた。難攻不落と呼ばれるウェルセドール連山でももっとも険しいシャドーヘイス山を幾人もの冒険家や学者が昇った。だが、頂上に立つことはできても、誰一人としてユスタファムを見つけたものはいなかった。ただ、遭難しかけた者たちは黒い山羊が崖を登っていく、あるいは下りていく姿をみて後をついていくと頂上、もしくは麓の登山口にたどり着いたという。その山羊が目撃されたのは、山の中腹であり三千から四千メートル前後だという。
(もし、なんらかの形でかくされているのだとしたら)
そう思いながら、魔法の歴史書の内容を思い出す。魔法が誕生したのは有史以前であり、その魔力がもっとも強かった【帝】が登場して、それまで世界を支配していた恐ろしい獣王を倒したことになっている。不運にも【帝】は、獣王を殺したとき浴びた血の呪いによりわずか三年で命を落とす。それに続くように兄弟姉妹、子供たちは謎の熱病に犯されて死んでいったとされている。世界に残されたのは、【帝】が書いたとされる魔法書の写本や獣人の生態などを書いた日記らしきものだけだった。その後は、現在にいたるまで、獣人は奴隷という身分になり、苦役をかせられた。彼らの多くは魔法を使えず、人間以上の身体能力を労働力として使役されている。多くは農村部で農業に従事しているが、都市部でもおもに土木に従事し、動物や罪人・病人の死体処理を行う。対して人間は、肉体労働から解放され学問を究めることや魔法を磨くことにせいをだしていた。獣人は奴隷といえども、彼らは彼らなりのやり方で、基本的な読み書きや算術を取得していた。人間が彼らに教えるのではなく、彼らの中に読み書きができるものや算術の得意な者が労働の休憩時間などに教え伝えているのだった。過去、それを禁じようとした動きもあったが、彼らをもっとも重要な労働者と認めていた農村部からの強い反発にあい、現在では獣人が読み書き、算術を取得することは暗黙の了解として世に了承されているのだった。
もちろん、農村部の反発だけが理由ではなかった。人間がそれを禁じないのは、獣人がはむかったときにうっかり殺して呪いを受けることをおそれるからだった。獣人もよほどのひどい仕打ちをされないかぎり、主人にはむかうことはない。
その理由は、過去の革命にあった。革命に参加した者は大敗し、ほとんどが死に絶えた。そして、その戦いにおいて人間は呪いを信じるあまり、同じ奴隷である獣人を使って殺し合わせたのである。その悲劇は獣人たちに語り継がれ、結果としておとなしく隷属するという選択を彼らに選ばせたのだった。ただ、人間の側にも奴隷制度に異を唱える者はいた。獣耳や尻尾があるとはいえ、人間と同じだけの理解力を持つものを虐げていることは、恥ずべきことだというのが獣人擁護派の言い分だった。だが、王侯貴族はそれを良しとしない。現状維持が人間にも獣人にとってもよいという考えである。そして、彼らは不満があるのなら革命を起せばいいと言って憚らなかった。
(当たり前だとおもっていたが、思った以上に複雑なんだな)
ハルベリーは獣人が奴隷であることに疑問をもたなかった。そういう存在なのだと思っていたからだ。だが、歴史は人間も獣人も得意分野が違うだけで、意思の疎通もでき、対等に存在することもできる。また、互いを殺し合うことさえ可能なのだと示唆していた。
(……ルクソールに会って話したいものだが)
ハルベリーがそう思って二日程過ごしていると、バースティアからルクソールが会いたがっていると面会を求められた。
「ルクソールが?」
「ああ、衝立の礼をちゃんと言っていないと言ってな」
「容態は芳しくないのだろう?俺が無理をさせていいのか?」
「本人が、旦那様に会いたいと言うのだから、遠慮なく会ってやればいいさ」
バースティアはそう言う。ハルベリーはわかったとうなずき、彼女とともに奴隷小屋へ向かった。部屋に入ると、衝立はどけてあり、ルクソールは獣人の姿で上半身を起こしてまっていた。
「……寝てなくていいのか」
ハルベリーは自分のために無理をしているのではないかと気にしたが、ルクソールは穏やかに笑い、今日は調子がいいようですと答えた。そして、バースティアに向ってありがとうございますと言った。
バースティアは何も言わず、静かにうなずき部屋を出て行った。
「旦那様はたぶん、私に聞きたいことがおありではないかと思って、お呼び立てしました。もうしわけございません」
「病人が謝ることではない。それにお前の言うとおりだ。会って聞きたかったことがある」
「はい、なんなりと……」
ルクソールはとても病人とは思えないほど、力強い声だった。ハルベリーはその声に、安心して質問をはじめた。
ニノはハルベリーが見舞いにきてから落ち着きなく、ルクソールの部屋のドアを何度も見ていた。
「心配するなというのは無理だろう。だが、ルクソールが望んだことだ。お前はおとなしくしていなきゃならない。わかるな」
バースティアにそう言われても、ニノは落ち着かなかった。
「確かにルクソールさんのご希望です。でも獣化を無理にといて、旦那様にお会いするなんて無茶だとおもいませんか?」
「無理をしてでも、会いたいと思う気持ちはお前にもわかるだろう?」
「それはわからなくはないですが……」
ニノの言葉はしりすぼみする。正直、自分なら穏やかにしずかに過ごしたいと思うからだ。バースティアはそんなニノの頭をやさしくなでた。そして、まだわからなくてもいいさとつぶやいた。
そうしているうちに、一時間は経っていただろうか、目を赤くはらした何か苦しそうな顔をしてハルベリーが部屋から出てきた。
「ルクソールがお前たちを呼んでいる。俺は屋敷にもどる」
バースティアはわかったと答え、ニノはハルベリーを心配そうに見つめた。ハルベリーは何か重い物でも背負ったようによろよろと奴隷小屋を後にした。
「何があったのでしょう?」
「さあな……それより、いこう。ルクソールが呼んでいる」
「はい」
ニノはうなずいてバースティアとともにルクソールの部屋へ入った。ルクソールは穏やかに笑いながら、話ができてよかったと言った。
「……さすがに疲れましたが、旦那様とお話ができて私は幸せです」
「そうか、では魔法を解こう。このままで話すのはよくないからな」
そういってバースティアは、右手の人差し指と薬指を剣のように立てて横に一線を描いた。瞬時にルクソールは黒豹の姿へと戻る。
『やはり、この姿は楽だ』
「つらければ、その姿でお会いになればよかったのに」
ニノは小さくため息をつきそういったが、ルクソールは首をふった。
『ニノにもいつか分かるときがくるよ。私は旦那様だから獣人として会いたかったのだ。獣の私など覚えておいて欲しくない。なんでもいいから、覚えておいてくれると言うのなら、私は獣人の私を覚えていてほしかったんだ。お前やバースティアさんには、この姿も覚えておいてほしい。どちらも私に違いはないけれどね』
ルクソールはそういうと、うつらうつらとして、いつの間にか寝息をたてていた。バースティアはただだまってルクソールの頬を優しくなでた。ニノは何とも言えない胸苦しさを覚えたが、ただ、じっとバースティアとルクソールの姿を見ていた。忘れてはいけない。そんな光景だった。