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その日の晩、約束通り夕食後にフリードマンはルクソールを訪ねた。衝立越しに椅子に座るとひさしぶりだなと声をかける。
『そんなに長く話していなかったかな』
ルクソールは苦笑いをしながら、答えた。
「君が倒れてから、一週間は経っているよ。時間の感覚もなくなってきたのか?」
『ああ、いろいろな感覚がなくなっていっているよ』
「それじゃあ、長居はしないほうがいいだろうか。できれば、昔話でもしたいのだけれど」
『それはいいな。俺も話したいことがたくさんあるよ。フュー。お前にしか頼めないことがたくさんあって困っていたところさ』
「そうか、ならそちらを聞くとしよう。いくらでも話したいだけ話せばいい。今日は執事としてきたわけじゃないから、君の頼みならいくらでも聞こう。ルクセル」
『ああ、お前の生真面目さは相変わらずだな』
「それはお互い様だろう。君はずいぶん紳士になったと思っていたがどうやら昔とさほど変わっていないようで安心したよ」
衝立越しにルクソールはくくっとのどを鳴らして笑った。
『衝立がじゃまだな。折角の旦那様のお気遣いだが』
「君がかまわないなら、よけるが?」
『ああ、かまわない。もう目はほとんど見えてないが……獣化した俺のすがたも覚えていてくれるとうれしいんだが』
そういわれて、フリードマンは衝立をたたんで壁に立てかけた。ルクソールは大きな黒豹の姿でベッドに丸くなっている。綺麗な黒豹にフリードマンは息をのんだ。
『驚いたか?』
「ああ、驚いた。君はもっと痩せこけて見るのも哀れな姿になっていると思っていたからな」
ルクソールは正直だなと笑った。
『ニノとバースティアが、小奇麗にしてくれたのさ』
そうかといってフリードマンは椅子をベッドのわきに引き寄せて座りなおす。
「それで、君の願いはなんだ」
『旦那様とニノとバースティアのことだ。なにやら、いそいそと準備をしているな。どこかに遠出するのか?』
「ああ、ちょっと領内を巡るんだ。旦那様のわがままでお供はバースティアとニノだよ」
『そうか、領内をね。旦那様はこのところずいぶんお変わりになったようなきがする。以前は、ガラス玉のような目をなさっていたが、バースティアが来てから、子供らしくなった。それに最近では領主らしくなったような気がするが?』
フリードマンは、確かに変わられたと柔らかな声で言った。
「本当に最初は、いい加減で人の話も聞かない方だった。奥さまも、かまって差し上げなかったから寂しさもあったんだろう。子供だから仕方がないと甘やかしたのもよくなかったのかもしれないが。……バースティアが来てから、とても刺激を受けたようだ」
そうだろうなとルクソールはうなずく。
『バースティアは、知識が深い。俺でも底が知れない。だが、なぜだろうな。ひどく懐かしいような感覚になる』
「私もだ。彼女はまるで女王のようだ。立ち居振る舞いに隙がない。口は悪いがあれが、わざとそうしているようにも感じるよ」
『フィーにそこまで言われるとは、さすがにすごいな』
「何がだ?」
『人の本性を見抜くお前の眼はすごいと言っているのさ。そう言えば、ザクセン様もいっていたよ。無自覚に人の本性をよく見抜くと』
フリードマンはふっと父親のことを思い出す。厳格だったが柔軟な考えのもちぬしだった。領主の不在が続いたこの領内で、いかなる問題にも真摯に向き合っていた背中を思い出した。
『それより旦那様の散歩が増えたようだが、いつもより息が上がっていることが多い。どこかお悪いのか?』
フリードマンはいつもの執事の顔で答える。すべてを話してやりたいという衝動に駆られながら。
「いいや、自らを鍛えていらっしゃるのだ。いろいろとバースティアに影響されたようだよ。執務でもわからないことはよく聞いてくださる。近々、経済や法について勉強するために教師を雇いたいとまでおっしゃるようになった。勉強だけでなく、体が丈夫であることも大事だとでも言われたのだろう」
ルクソールは嬉しそうに目を細める。
『そうか、それはいいな。ここへ来たときは、なんとも無気力な子供だと思っていたが。やはり、若いやつは成長しようとあがくのだな』
「あがくのに年齢は関係ないと思うがな」
『かもしれん』
二人はお互いにくすくすと笑った。
「他に頼みたいことはあるか?」
『そうだな。墓はいらない。ブルーゼロさんのように火葬して骨はウェルセドール連山のどこかに打ち捨ててほしい』
「そうか、確か伝説の獣王都市があるという話だったな」
『ああ、どこにあるのか俺たち獣人にもわからない。それでもあの連山のどこかにあるなら、俺はそこの土になりたいんだ』
「土に還る。それが獣人たちが墓をつくらない理由だったな」
『ああ、そうだ。獣人には人が信じるような魂とかいうものはない。ただ、伝えていくことだけが、使命だ。だから、墓は親しい人々の胸の内だ』
「思い出になるには、まだ、少し早いと思うぞ、ルクセル」
フリードマンは冷静な顔の裏で沈みかける心を必死て押さえていた。
『そういうな、フィー。尽きる命は尽きるまで命だ。俺は運がいい。ザクセン様やブルーゼロさん、それにお前や旦那様、ニノという息子同然の子もいる。看取りをしてもらえるのだから、幸せ者だ』
フリードマンはそうかといい、今までに思っていた疑問を口にする。
「ルクセル……バースティアは何者だと思う?魔法の使える獣人はいないわけではないが、知識の深さ広さも大したものだ。それに以前、上級魔法を使っただろう?」
『ああ、俺もあれには驚かされた。だが、本人が話したがらないことを無理に聞きだすのは、俺の本意じゃない。それに、今となっては彼女の正体などどうでもいい。出会えたことが俺はうれしい。それだけだ。お前にも感謝するよ、フィー。穏やかで静かな日々だった。ありがとう』
「君が礼など気持ちが悪い。口が悪くて人嫌いだった君はどこへいったんだ?」
フリードマンは、苦笑いを浮かべて悪態をついた。
『きっとザクセン様やブルーセルさんが一緒につれて行ったんだよ。だから、俺はお前たちの何かを連れて旅立つのさ。……すまない、どうやらしゃべりすぎたらしい……頭がぼんやりしてきた』
「疲れたんだろう。ゆっくりお休み」
『……ああ、おやすみ、フィー……また、そのうちな……今度は昔話を……しよう……』
ルクソールはそう言うと静かに寝息をかきはじめた。フリードマンはそっと椅子と衝立をもとにもでして部屋をでた。昔、ブルーゼロが死んだ時のように、ルクソールに死が近いことをひしひしと感じた。そして思い出す。ルクソールがこの屋敷に来たとき、目つきが怖いと思ったことを。そこに人間への憎しみがちらちらと伺えたことを。だが、今は穏やかな目をしていた。
(時間薬とは……よく言ったものだ)
フリードマンは次はもうないような気がした。まだ、終わらないでほしいと願うが、それが無理なことだということも、会って話をしてわかった。死にゆくには少しだけ若いルクソールは、フリードマンより五つ上で、まだ四十代だ。それでも、もう時間がないことはよく分かった。だから、なんだっていい覚えておこう。獣人の姿のルクソールも、皮肉屋でなかなか心を開かなかった荒れていたころのルクソールも、お互いに人間とは何か、獣人とは何かを共に学んだことを。そして今夜の美しい豹であるルクソールを。一つでも多く忘れずにいようとフリードマンは晴れ渡る夜空に誓った。