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ルクソールは獣化したまま、一日中、ベッドで過ごした。彼は黒豹の姿で長い時間眠っている。食事はなんとか生肉を少しだけ食べられる程度で、徐々にやせ細っていた。そんな中、ニノとバースティアがヒノキの香りを纏って部屋を訪れた。
『ヒノキの匂いがしますね。その包ですか?』
ルクソールが声にならない声でそう尋ねると、ニノが嬉しそうに言った。
「旦那様がルクソールさんのために衝立を買ってくださったんです。お見舞いもしたいとおっしゃっていましたよ」
ルクソールは顔を前足で覆う。
『お気遣いくださるとは……。ただ、私は……飼われていたにすぎないのに……』
その声は、涙に滲んで途切れ途切れになる。バースティアはこのくらい当然だろうと言う。
「獣人のことを何も知らなかったんだ。それがお前やニノがいたから、学びにつながった。それに旦那様は案外と面白い人間だぞ」
「バースティアさんが何かなさったんでしょ?」
ニノがそう言うと、いいやとバースティアは苦笑した。
「ただルクソールが死期に入ったことだけ伝えたんだよ。そしたら、旦那様が自ら何かできることはないのかと言ったから、助言はしたがな」
『そうですか。私の死は旦那様の役に立てるのですね』
「ルクソールさん!そんなこと……」
ルクソールは顔をあげて、ネコ科の美しい目でニノを見つめた。
『ニノ。君も学んでおくれ。私の死は意味がある。誰の死にも意味があるんだ。そうでしょう。バースティアさん』
バースティアは、力強くうなずく。
「そうだ。ルクソール。お前も誰かを見送ったか?」
『はい、私がここにきたころいろいろと教えてくれた方がお二人。お一人はフリードマンさんのお父上です。もう一人はここの前の主人だった方に買われた奴隷の獣人。私の病んだ心を救い、さまざまな知識を与えてくださいました』
ルクソールは懐かしそうな顔で言った。
「そうか、とにかく衝立をここに開いておく。話したいことがあれば、すぐにあたしでもニノでも呼べ」
ルクソールは、コクリと頷いて体を丸くしたまま、動かなくなった。眠りに落ちたのだろう。獣人は死期に入ると、眠る時間が多くなるのだ。
ニノとバースティアは静かに衝立をドアとベッドの間に立てて、部屋を出た。部屋をでるとニノがうつむいて尋ねる。
「なぜ、死に意味があるというのですか。死んでしまえばそれまででしょう?」
ニノは寂しさと納得がいかないという顔で呟くようにそう言った。バースティアは首をふる。
「お前はまだ、誰かの死を見送ったことはないんだろう?残念だが、こればかりは言葉で説明しても何もない。ニノが感じることすべてだ。何を感じどう行動するか。何を願いどこへ進むか。奴隷といえども、考えることを、感じることを忘れてはいけない。それが獣人たるあたしたちの誇りだ。そして、死は多くのことを教えてくれる。ルクソールは、今、偉大なる教師だ。誇りをもって死に向かう」
バースティアは背の高いニノを真っすぐに見上げて言った。
「ルクソールはお前にできるかげいり、己の知っていることを語るだろう。お前はそれを根気よく聞き続けなけりゃならない。それが死期を向えた獣人への一番敬意だ。ルクソールはニノにとって親も同然なら、獣人として最後まで彼の話をを聞いてやれ。ルクソールが思い残しのないようにな」
さあ、仕事に戻ろうとバースティアは、ニノをせかせた。彼女はルクソールがあとどれくらい生きていられりるか知っていたが、正確なことは秘匿した。ニノにとっても、ハルベリーにとっても、はじめて向かい合う『死』である。この学びを奪う権利は誰にもない。だから、バースティアはいつもと変わらず、庭の手入れをしていた。そこに、珍しくフリードマンがやってきた。
「少しルクソールと話をしたいのですが」
「そろそろ来ると思っていたよ。あまり長く話すのは無理かもしれない。今は眠っているから、夕食後にたずねてくるといい。ニノには訪問を伝えておくよ」
それとと言って、バースティアは銀色の小さなイヤリングをフリードマンに渡した。
「これは?」
「補聴器のうようなもんさ。ルクソールは獣化しているから、言葉も流暢にでない。そいつを身につけていれば、よく聞こえる。あんたの父親には世話になったと言っていたからな。見舞いは快く受けるさ」
フリードマンは、小さな二つのリングをじっと見つめ、ハンカチに大事そうに包んで胸ポケットにしまった。
「では、今晩お邪魔いたしますので、そのようにお伝えください」
「ああ、わかった」
フリードマンが立ち去ると、また立ち聞きかとバースティアは独り言にしては大きめの声で言う。すると、苦い顔をし、玉のような汗をぬぐいながらハルベリーが木陰から出てきた。
「人聞きの悪いことを言うな!俺はお前のいいつけどおり、こうやって散歩してただけだ」
「ああいうときは、足を留めずに去るのが紳士だよ、旦那様。汗がひどいな。ちゃんと水分をとって歩いてるんだろうな」
「言われなくてもそうしている。今日のノルマは終わった」
ハルベリーがむすっとした顔でそう言うと、バースティアはそうかと微笑む。
「それより、なぜ俺の見舞いはダメでフリードマンはいいんだ?」
「そりゃ、旦那様がここに来る前からの付き合いらしいからな。それにフリードマンの父上にはたいそう世話になったとルクソールが言っていた。別れの一言もいいたいのだろう。お互いに」
「そうか……最近のフリードマンは少しうわの空のような気がしていたが、気のせいでもなかったか」
「ふうん、仕事人間だとばかり思っていたが……情はあついか」
バースティアは、フリードマンの去った方を見て、目を細めていた。そして、ついでとばかりに近いうちにルクソールにあわせてやると言う。
「やるとはなんだ。かりにも俺は主人だぞ」
「主人だろうが王様だろうが、知るかよ。ま、もうあまり時間がない。ルクソールに会いたいという奴がいれば、会わせてやるさ。ただし、ルクソールが会いたいというのなら、だがな。まあ、旦那様にも会いたくないわけじゃないだろうから、聞いておいてやるよ。あたしも世話になったしな」
ハルベリーは眉間に皺を寄せた。バースティアは相変わらずの口と態度の悪さであるが、彼が気になったのはルクソールの余命だった。
「そんなに時間がないのか?」
「ああ、ない……」
バースティアは小さくため息をついた。
「何度、死に立ちあってもなれないな」
そういってそっと胸に手をあてる。一瞬、バースティアが泣いているのかとハルベリーは思った。そしてそれは、するりと言葉になっていたが、彼女はするりとかわすように微笑んだ。
「泣いてないよ。まだ、ルクソールは生きている。別れがすむまでは泣かないのがあたしの掟だ。あと、ルクソールが感謝していたぞ。衝立」
「別に大したものじゃない。古道具屋で磨いていたアンティークだ。磨き立てはかなり香っていたが、届いたときはほとんど香りがしていなかった。あんなものでよかったのか」
「ああ、あれくらいの香りで丁度いい。ルクソールもいい香りだと言っていたからな。今ごろは気持ちよく眠っているだろう」
ハルベリーは興味がないといいたげに、ふうんと言った。だが、内心はルクソールが喜んでいたことがうれしかった。
「それより死期と言うのは、誰でもわかるものなのか?」
「いいや、獣人は人間よりも身体に変化がでやすい。だから、わかりやすいだけだ。命の終わりは誰にでも等しく訪れる。どんなに生きたいと願っても、死ぬときゃ死ぬ。生き残るときゃ生き残る。ルクソールのように死期に別れを言う相手がいる奴はまれだろう。奴隷は、仲間に見送られるからいいが、人間は寂しく死んでいく者が多いな」
「それはどういうことだ」
「獣人は生まれながらに奴隷という立場があってそこに縛られているから、仲間が看取る。だが、人間は仲間がいない。家族をつくれば、看取ってくれるだろうが。そうできず、はぐれた者たちは、人知れず町のどこかで冷たくなってるよ」
ハルベリーはそんなことはないと反論する。
「人間には教会がある。飢えているときも、仕事が欲しいときも頼れるよう整備されているはずだが?」
バースティアは数がたりないのさと、深いため息をついた。
「労働力なら、奴隷の獣人で賄えるからな。金のある家なら家令を増やすより奴隷を買う。没落すれば、路頭に迷う。零落した家の奴隷は奴隷商が買うから、行き場があるが……庶民の方が奴隷よりよほど窮している。この領内では、そういう人間は少ないほうかもしれないが。最近、屋敷の外にでていないからよくはわからないな」
ハルベリーはそう言われて、いくつかの陳情書を思い出す。教会が不正を行っているから調べてほしいというもの。裏町の娼館の衛生状態が悪く病気が蔓延している。医者を派遣して治療してほしいなどだ。フリードマンに詳しい調査と派遣できる医師を探している最中でもある。他にもいろいろ領内には問題があった。だが、獣人からの訴えは一つもない。それは獣人が何か不満を抱いても、彼らが領主に訴えることができるのは強制的に他者への暴力を振るえと命じられたときだけでだからだった。食料や生活環境については、主人に改善を訴えるか我慢するしかないのが現状である。奴隷をどう扱うかを決めるのは結局のところ、主人以外にはない。
「陳情書がいくらか来ていた。今、フリードマンに調査と手配を頼んでいるところだ」
「そうか……ならいいさ。ほら、旦那様。こんなところで油売ってないで仕事しろ」
バースティアはそういって、また、庭いじりをはじめた。
「ふん、言われなくてもそうする。お前もサボるなよ」
ハルベリーは一言文句をつけて、できるだけ疲れをみせないようにしながら、屋敷へもどった。