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片足になったからといって、王位継承権が消えるわけではないが、母が退位する際に正妃として選んだもっとも若い側室はすでに男の子を生んでいた。彼女の生家は、侯爵家だ。身分は低くない。王位継承順位はハルベリーの方が先だ。
しかし、新しい正妃の産んだ子はすでに八つになっており、あと二年後、十歳になれば皇太子になるだろう。そうなれば、自分の存在の意味はなくなる。いや、邪魔になるだろうとハルベリーは思った。母親であるマリアンヌが王妃を退位したとき、本当に自ら王妃をゆずったのだろうか。彼女の生家は伯爵。王妃の身分としては十分だ。
ハルベリーは考える。シーベルへ来てからの彼女の生活は、奔放なものだった。伯爵令嬢であった母、王妃であった母。その母がハルベリーを教育せず、子爵や男爵といった地方領主たちの夫人や娘たちをサロンに招いては遊興している。時には家令と体の関係を結ぶ。まるで、王である父に見捨てられ、自暴自棄になったように。
ハルベリーは、ようやくそこに思い至った。
(俺たちは厄介払いされたのか)
母の浅ましさに侮蔑さえ抱いていた彼は、ようやく自分の立場というものが、父や新しい王妃にとって邪魔な存在なのだと気がついた。表向きは、綺麗に退位した母と意味も分からず、体が弱いとして大公に封じられた自分という存在。
ハルベリーは深いため息を吐いた。プライドを傷つけられた母の哀れさにも、自分の立場の危うさにもきがつかず、日々の苛立ちをバースティアにぶつけていたことに。
「いまさら……」
バースティアに頭をさげるなど、自分のプライドが許さなかった。そして、このどうしようもない虚無感に気が付かせたバースティアを恨みたくもなった。しかし、それはもっと自分をみじめにするだけなのだとハルベリーはわかっていた。それからの彼は、何にも興味がわかなくなった。ただ、毎日のように書類に判を押した。今まで以上にいい加減な仕事っぷりに、珍しくフリードマンが眉をひそめた。
「ハルベリー様、書類の内容にきちんと目を通されておいでですか?」
「別に判を押せばそれでいいのだろう?」
「僭越ながら、そのようなことでは大公として領民に示しがつきません」
「知るか!そんなこと!」
ハルベリーは怒鳴った。
「執事の分際で、主人に意見するのか!何様のつもりだ!!」
フリードマンは、どこか悲しそうな目をして失礼いたしましたと一礼すると、もう、何も言わずに書類をもって部屋を出て行った。ハルベリーは一人きりになった執務室で床に松葉杖を叩きつけた。
(足さえあれば……)
悔しくて涙がでそうだった。みじめさと無力さがハルベリーを苛立たせている。そんな状態の彼の部屋に、ノックもせず薔薇を抱えたバースティアが現れた。
「何を勝手に入ってきている!」
「ああ、手がふさがってるからノックできなかったのさ。悪かったな。旦那様」
バースティアは別に悪いとも思っていないという態度で、枯れかけた花瓶の花を新しいバラに活けかえはじめる。
「そんなもの活けるな。目障りだ」
バースティアは、小さくため息をついた。
「何をそんなにイライラしているんだ?しばらくおとなしいと思っていたら……そういえば、フリードマンが珍しく沈痛な顔をしていたが、旦那様は何かしたのか?」
「なぜ、俺が何かしたことになる。奴がどんな顔をしようと奴の勝手だろうが!」
「ビービーうるさいな。怒鳴ってないでわけを言えと言っているんだよ。確かに旦那様の言うとおり、フリードマンがどんな顔をするのも自由だろう。けど、この大公家をきちんと支えている人間にあんな顔をさせたのが旦那様だとしたら、大馬鹿だな」
バースティアは、以前と何も変わらない態度で、花瓶に薔薇をさしていく。さし終わると、床に転がった松葉づえを拾い上げ、ハルベリーの仕事机に立てかけた。
「もう、松葉づえなしで歩けるのか?」
バースティアはなんのきなしにそう尋ねる。
「お前こそ、ばかだろう。片足だけで歩けるわけがない」
「だったら、こいつは旦那様の足だろう?自分の足を、床に投げつけて何の得がある?」
彼女のいうことは正しい。正しいからこそ、ハルベリーは苛立ちを激しくした。
「うるさい!発情期もきていないような子供にとやかく言われる筋合いはない!」
バースティアはそれを聞いて、いきなり吹き出し、盛大に笑った。
「な、何がおかしい!」
ハルベリーは戸惑う。皮肉な笑い顔しか見せなかったバースティアが、心底おかしそうに大笑いしているのだから、無理もない。
「旦那様は獣人の生態も知らずに、あたしたちを囲っているたのかと思うと……」
そういいながら、バースティアはあはははと腹をかかえて笑う。笑いすぎて、涙まで浮かべていた。そして、息を整えながら言う。
「発情期云々がわかっていながら、奴隷小屋が一つしかないのが気にはなっていたが、まさか、知らなかったとはなぁ。この間、盗み聞きしてから勉強でもしたのか」
バースティアは穏やかな微笑みを浮かべている。ハルベリーは、怒りより羞恥で顔が赤くなった。
「勉強したなら、それはいい傾向だな。ものしらずのままの主人を支える家令は、そのうち誰もいなくなるが、勤勉な主人なら誇りをもって仕えることができる。少しは主としての自覚がでてきたのならいいことだ」
バースティアは、どこか楽しそうに枯れた花を手早くまとめるとさっさと部屋を出て行った。ハルベリーは何も言い返せなかった。勤勉になったのではない。バースティアにバカ呼ばわりされて、見返してやりたくてこのひと月ほど、いろんな本を読み漁っていただけなのだ。それでも、彼女は勉強したことを褒めたのだとハルベリーにはわかった。あんな風に、晴れやかに笑い、楽しそうに微笑んだ顔がそうだと言っているような気がした。そんなことがあってから、ハルベリーは書類にきちんと目を通すようになった。わからないことがあると、フリードマンに質問する。彼は、いつもと変わらない態度で丁寧に説明をする。だが、どこか嬉しそうに見える。自分の思い違いだろうかとハルベリーは考えていた。