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血まみれで奴隷小屋に戻ってきたバーティアスを見て、ルクソールとニノはあわてた。
「どうなすったんですか。こんなに血まみれで」
ルクソールはぼろの手ぬぐいで、バースティアの頬を拭う。ニノは桶に水をくんできた。
「たいしたことないよ。ちょっと怪我をしただけさ。といっても、もうふさがったけどね」
旦那様ですねとニノが小さくため息交じりにつぶやく。ルクソールも同じようにため息をもらし、手拭いを桶できれいに洗うと、もう一度バースティアの血を綺麗に拭いた。
「寂しい子供のしたことだ。気にすることはない。あたしならこの通りだ」
バースティアはにこりと笑う。ルクソールとニノはやはりため息をはいた。
「傷の治りが早いと言っても、痛みはあるでしょうに」
「旦那様もどうしてああなのか。僕にはわかりません。僕やルクソールさんにはこんな無体はなさいません」
「それは、ニノやルクソールがおとなしいからだよ。あたしはここに来た時に、存分に嫌がらせをしたからね」
バースティアはそう遠い昔でもないのに、たった一年程度のときを懐かしそうに思い出して笑う。
「僕は前の主人にひどい扱いをされたので……人が怖い臆病者なだけです」
「わたしもここに来るまでは、もっとひどい扱いでした。旦那様を悪く言う気にはならないのですが、それでも……」
バースティアは手をあげて、その先の言葉を制した。
「ルクソールもニノもあたしに気を使うことはないよ。ここにいて不自由を感じないのなら、奴隷として生きていたとしても卑屈になることはない。あたしはしたいようにしているだけ。ただ、毎日をお前たちと同じように生きているにすぎない。それより、今日から地下住まいだ。とりあえず、着替えて引っ越しだよ」
バースティアはにこやかに微笑んで自分の部屋へ姿をけした。
「どうして、バースティアさんはいつもあんなにしっかりご自分の意見をいえるのでしょうか」
「さあ、わたしにもわからない。ただ、彼女はわたしたちよちずっと過酷な目にあったんじゃないかと思うよ。誰の前にたっても、卑屈にならない。あのリングはきっと彼女にとって誇りなんじゃないかとわたしは思う。普通なら尻尾にリングをしていれば、人間のペットになりさがった最低の獣人として同じ獣人でさえ蔑むこともあるからね」
「あれは、そんなに屈辱的なものなのですか?」
「そうだな。まだ、奴隷制度に主人への苦情を訴える法がなかった時代だから、もうほとんどが亡くなった世代の名残だろうか。人間が獣人に絶対服従を強いて嵌めたものでね。そんなものを嵌められた獣人は抵抗しなかったのだと言われている。それに獣人としての力を封じるためのリングなんだそうだ。そのリングをもつ獣人は人並みの力しかだせない。だからあれは、例え無理強いされたといわれても、人間に媚びた誇りなき者の証だったそうだ」
「しかし、バースティアさんは違うようですが……」
「彼女は特別なのだろう。人間が操る魔法も効かない。傷の治りも見た通り、獣人の数倍は早い。あのリングもまるで威力を持たないただの飾りのようだ。きっと彼女は自分でリングを捨てることもできるんじゃないだろうか」
「なら、なぜ?」
ルクソールはこれはわたしの推測だよと言ってニノを見た。
「きっと、人間と獣人が争うことを嫌っているのだろう。今は昔ほど扱いはひどくないとわたしの前にここで働いていた老人からきいたよ。隷属することに業を煮やしたものが、革命をなそうとした時代よりずっとまともな生活ができているとね。その革命も成功しなかった。それは人間が魔法で奴隷の獣人を使い、獣人同士の戦いとなってしまったそうだから」
「なぜ、そんなことに……」
「人は獣人の血を浴びると、呪われて一族が滅ぶと信じている。獣王を倒した帝とその一族がことごとく死に絶えたからね。老人は奴隷として意に反して同族を殺すことになってしまったことが悔やまれてしかたないと亡くなる前に話してくれたよ」
「そんなことが……」
ニノは沈痛な面持ちで深いため息をついた。
「それ以降、人間たちの間では獣王の子孫がひそかに暗躍し、人間を殲滅しようとしているという噂がまことしやかに伝播した。獣人たちの間でもその噂はまたたくまに広まった。けれど、革命が失敗に終わり獣人側で噂を信じる者は無くなったと言っていた。だが、人間の側では連邦政府が奴隷法に主人が奴隷の意に反して戦闘を強制した場合は訴えることができるという権利を制定したんだ。それが原因かどうかはわからないが、人間側ではますます噂は本当のことになってしまったそうだ」
「皮肉な話ですね。獣人は王の子孫の存在を忘れ、人間はその存在を認め、おびえているなんて」
「そうだな。とにかく、わたしたちはバースティアさんが自分の意志でしていることに口出しするべきではないのだろう」
「それはそうでしょうが……旦那様のなさりようは……」
ニノがそう言いかけた時に、荷物をまとめたバースティアが部屋から出てきた。
「じゃ、いってくるから。ニノ、ちゃんと字の勉強わすれるなよ。それからルクソールはもう歳だから無理なことはニノを頼れ。あたしはいつもの通り、薔薇の面倒をみてるから何か困ったころがあればいいな」
バースティアはそれだけ言うと颯爽と奴隷小屋から出て行った。
地下の部屋は湿った牢獄のようだったが、バースティアは全く気にしなかった。地下は冬は暖かく夏はすずしい。温度も湿度も一定なのだ。体が慣れさえすれば、たいして不快でもない。バースティアは、何もない空っぽの部屋に、馬小屋から藁を運び込み、それをシーツに包んで簡易のマットをつくった。しけっているのでそのまま布類を床には置けない。簡易のマットをおくためにルクソールからレンガ屑をもらった。庭の花壇用につかったもので、ヒビがはいったり、割れたりしたものだ。普段から奴隷小屋のかまどの修繕用にとっていたものである。結構な数をもちこんだが、ルクソールは竃の方は心配ないのでいくらでももっていくように言う。ニノが運ぶのを手伝うと言ったが、奴隷は主人の許可なく屋敷には入れない。入れば罰があたえられる。それもどんな罰かはわからない。だから、バースティアはニノに笑って心配いらないと言って簡易魔法でレンガを小さくし、必要な分を一度に運んだ。
獣人は魔法を使えない。けれど、獣化しにくい者はいくらかの魔法が使える。獣人は眠ると必ず獣化するから、ベッドは必要ないことが多い。
(なくても困らんが……)
バースティアには寝ていても起きていても獣化できない事情があった。それは、尻尾に嵌められた銀のリングが獣化してしまうと外れてしますからだ。外れれば、それは厄介な事態を招く。だから、バースティアは仕方なく人型で過ごしていた。
(よし、こんなものか)
部屋の真ん中にレンガをしき、その上にマットを置く。そこを境に部屋へ入って右奥に、飲みみ水を入れるための大甕を置いた。用足しの甕は入り口近くの左端に置いて、中にいれる砂と木くず入れとを並べて置いた。こうして、バースティアの地下生活は始まったのである。
地下生活が始まってから、バースティアは一日一食の食事時にハルベリーに呼ばれる。
「懲りないね」
バースティアはなげやりにいうがハルベリーは聞く耳をもたないように魔法書を手に何やら呪文を唱える。
「そんなことをしても無駄だと最初にいったはずだぞ。旦那様は頭が悪くなったのか?」
それを聞いてハルベリーはちっと舌打ちをする。彼が懸命に呟いている呪文は、他者を従属させ操る魔法だった。この魔法は弱っている者にほどよく効くと魔法書には書かれている。だが、バースティアには一向に効く気配がない。
「魔法をつかうには、それなりの修行ってものが必要だといったはずだがな」
「うるさい。俺は普通に魔法がつかえるんだ。これくらい、絶対にできる!」
「まあ、そう思うなら続ければいいさ。ただし、あたし以外の人間に使うなよ。特に獣人にはな」
ハルベリーは意地悪く目を細めてニノで試してみるかとつぶやく。
「好きにすればいい。法がそれを許せばいいがな。まさか、その年で知らないとは言わないだろう」
「なんのことだ?そうやってニノをかばおうとしても無駄だぞ」
バースティアは深くため息を吐いた。
「やっぱり、お前はものを知らなさすぎる。いいか、従属魔法は禁止魔法だ。特に獣人に仕様すれば、大公といえども、極刑に処せられる。そこに法律の本があるじゃないか。奴隷制度法をよく読め。このバカが」
バースティアは呆れるのを通りこして、はじめて怒りをあらわにし、部屋を出て行った。ハルベリーは役立たずの魔法書をドアに投げつけた。
(なぜ、俺が獣人にバカ呼ばわれされねばならん!!)
腹立たしい。しかし、バースティアの言った言葉がひっかかり、視線は法律書に自然と向いていた。奴隷制度法がなんだというのだと、心の中で毒づきながらもハルベリーは法律書を手にして読んだ。奴隷制度法第三章に従属魔法は禁止魔法であることが書いてあった。そしてそれを獣人に使用したものは、死刑または終身刑とするとあった。そして類例法として、別のページに禁忌魔法として、従属魔法が記載されており、それを習得しようと試みた場合は、六年の苦役を課すとされていた。ハルベリーは、自分が物知らずだとわかって愕然とすると同時に、奴隷であるバースティアのほうが物事をよく知っていることに苛立ちを覚えた。