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登山はかなり厳しいものになった。初夏とはいえ標高が上がるごとに冷えていく。一時間から二時間くらいのぼると、休憩し、水分と飴や乾燥果物を補給をした。
(想像以上にきついな)
フリードマンの用意してくれたピッケルのおかげで、すべって転ぶことはない。ただ、ハルベリーは、辛うじて道に見える場所をただ歩くだけの作業がここまで苦しいとは想像していなかった。五キロの荷物を背負い毎日歩いたのは平たんな庭だ。少しでも鍛えておこうと腕立てや腹筋も日課にしてはいた。それでも、この斜面はきつい。前をいくバースティアがゆっくりと歩いているのがわかる。後ろのニノがいつでも自分を支えようと身構えていることもわかった。それでも、ハルベリーは黙っていた。弱音など吐けない。せめてバースティアのいう隠れ里につくまでは。
そう思っていると不意にバースティアが道をそれる。里が近いのかと思ったら、大きな岩場に穴が空いていた。バースティアはその中に入って、腰のロープを外す。
「今日はここで野宿だ」
「ここで?まだ、日も落ちてないのにか?」
ハルベリーは自分が足を引っ張っているのではないかと心配になった。
「日が落ちる前に、野営のできる場所で休むのが山の安全な登り方だよ。最初から全力で登ったりしたら命に関わる。山っていうのはそういうもんだ。他に聞きたいことは?」
ハルベリーはないといって、腰のロープを解いた。ニノが手をかそうとするとハルベリーはそれを拒否した。
「悪いな。できるだけ、自分でやりたいんだ」
「そうですか。僕も余計なことを……すみません」
「謝るな。お前は悪くない」
はいとニノはうれしそうに笑った。ハルベリーはなんだか照れくさくてとりあえず、荷物を下ろした。その間にバースティアは慣れた手つきで暖をとる準備をしていた。燃やすものは、食べ物を包んでいた油紙といくらかの薪がある。けれど、バースティアは火をつける気配がない。どうするのだろうとハルベリーだけでなくニノも戸惑っていた。
「さて、薪を拾ってくるから少し休んでろ」
「薪ならもってきただろう?」
「あれは木が拾えていない場所で使うんだよ。今日はまだ森が近いからな。あたしが拾ってくる」
バースティアはそういって穴から出ようとしていた。
「三人で行った方が早くないか?」
ハルベリーがそう声をかけると彼女は首を横にふる。
「ダメだ。特に旦那様はな。迷子になったら困る。ついでに荷物の番をしておいてもらいたいね。このあたりなら盗賊くらいは、でそうだからな」
バースティアは脅かすように笑う。不満げなハルベリーをよそに、ニノには近くの岩から水が湧いているから空になっている水筒に水をくんでくるよういいつけていた。
「ニノはよくて俺はダメなのか」
「嗅覚の差だ。ニノは迷えば匂いで追いつく。それだけのことだ。不満か?」
ハルベリーは首を横に振った。バースティアは、自分に気をつかったのではないのだ。単に特性の違いでそれぞれするべきことをわりふっただけだった。
「わかった、荷物の番をしてやる」
「よし、旦那様はとにかく外にでるなよ」
「しつこい!ちゃんとここにいる。男に二言はない」
バースティアはなぜか笑わず、ニノにも水汲みがすんだら真っすぐ穴の中にもどるよう言っていた。
「じゃあ、行ってくる」
ひらひらと手をふって彼女は、穴を出ていった。ニノも空になった水筒をもって出ていった。
一人留守番になったハルベリーは、穴の中をぐるりと見渡した。入口は狭いが中は意外と広くなっていて、大人が五人くらいは寝そべることができるかもしれない。誰かが野営をしたような跡もあった。円形に並べられた石の内側は黒く焦げている。暖をとったのだろう。他にも少し木切れが落ちていた。ハルベリーはすることもないので、その木切れを集めた。ほんの少しかがんで物を拾うのは、ハルベリーにとって思いのほか体力がいった。さすがに、穴の中の木切れをすべて拾うことは無理だったが、火をつける足しにはなりそうなので炉の側に置いて座り込む。ちょうどそこへニノが戻ってきた。
「木切れ……集めたんですか?」
「うん、少しぐらいは何かしないとな」
「その気持ちはわかりますが……体力を温存しておくことも旦那様の仕事だと思います」
ニノは心配そうに、けれど率直にそう言う。ハルベリーはそうだなと苦笑を浮かべて、ハルでいいと言った。一瞬、ニノはポカンとした顔をして、あわててとんでもないと言う。しかし、ハルベリーは引かない。
「俺もお前をニノと呼ぶ。だからお前もハルと呼べ。屋敷を離れてまで旦那様呼ばわりされるのは、あまり気分がよくない」
「けれど……バースティアさんもお名前で呼ばれませんし……」
「あいつはいいんだ。俺をバカにして旦那様というのだからな。いつか、かならず心を込めて旦那様と呼ばせるんだ。でも、ニノを奴隷として扱いたくない。たとえ、それがこの旅の間だけだとしてもだ。どうしても嫌だと言うなら……仕方ないから、命令にするぞ」
ニノは困ったように笑った。
「なんだか、バースティアさんみたいですね。旦那様……いえ、それではハルさんと呼ばせていただきます」
「ハルがいい」
ハルベリーが駄々っ子のようにそういうので、ニノはそれを聞き入れるように了承した。
「わかりました。では、ハルと呼ばせていただきます」
ハルベリーはうんとうなずいた。
「ニノ、お前にひとつ聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
「獣人は耳がいいのだろう?」
「ええ、ただし普段は人並みです。意識を集中して聞けば、かなり小さな音も聞こえます。獣化すれば、常時小さい音を拾いますが……何か気になりますか?」
「いや……なんとなく聞いてみたかったんだ。ありがとう」
ニノはいいえと穏やかに笑った。
(ルクソールとの話は聞こえていなかったのかもしれないな)
もし、聞こえていたのなら、旅への同行を拒んだかもしれない。たとえ、ルクソール本人が憎しみはないと言っても、仲間の悲惨な過去を聞いて人間と仲良くしようとは思わなくなるだろう。それにバースティアはいっていた。親しい者と語らうのが獣人の葬送だと。それなら、本人の口から話を聞いているのかもしれない。息子も同然だとルクソールは言っていたから。
(きっと、俺と同じように憎むなといわれたのかもしれないな)
ニノの態度はいつもと変わらないし、接する時間が長くなったせいか以前より気配りを欠かさない青年なのだということがわかる。いい奴なのかもしれないとハルベリーは思った。
「ああ、もどられたようですよ」
ニノがピンッと耳を立てて、穴の入り口を見つめていた。ハルベリーにも何かを引きずるような音が聞こえてきた。そして、穴に大小さまざまな木々を束ねたものが、ごりっと突っ込まれた。
「ちょっと、ひっぱってくれ!」
そとからバースティアの怒鳴る声に、ニノがさっと動く。ハルベリーも何とか立ち上がったが、ニノだけで手はたりた。スポンという音がしそうなほど、あっさりと木々の束は穴の中に引きこまれた。
「結構な量だな。木を一本切ってきたんじゃないだろうな?」
ハルベリーがそういうと、そんなばかげたことはしないよとバースティアは答えた。
「まあ、ちょっとずるはしたがね」
「ずる?」
バースティアはニヤリと笑うとさっさと、炉端に腰かけて火を起し始めた。その手には、何やら金属のケースのような物が握られている。
「それはなんだ?」
「カイロだよ。石綿に火をいれて暖を取る道具さ」
「マッチはダメなのか?」
「しけるからな。こっちの方が便利だ」
バースティアはハルベリーの質問に答えながら、油紙に火を移し、小枝を燃やす。火の勢いが強くなると少しずつ太い枝を入れていった。
「ニノ、鼎をとってくれ。あと水もな」
ニノは言われたとおりにする。あっという間に小さな鼎の中で水が湯に変わっていく。ハルベリーは鼎をしげしげと見つめる。鍋に三つの足がついている鉄の器を。
「いろんな道具があるんだな」
「まあ、旦那様の日常には必要がない代物だがな。こういうのも悪くはないだろう?」
バースティアは楽しそうに言う。ハルベリーもこくりと頷いた。今まで生きていた世界は、なんと狭いことかと思わずにいられなかった。夕食は乾パンと干し野菜のスープ、干し肉をあぶって食べた。ハルベリーはすべてはじめて食べるものばかりだった。干し肉は塩辛く、乾パンは噛んでも噛んでもなかなか口の中から奥へとすすまない。干し野菜のスープを飲むと口の中でほどよいうまみを感じた。
(いっそ、ぜんぶスープにして食べればいいのに)
ハルベリーがそんな風に考えていると、ニノが干し肉をスープにちぎって入れていた。
「ニノ、おまえなぁ」
「え?なんですか。ハル」
「そういう食べ方があるなら、教えろ!」
「え?だって、干し肉ってあぶってもあまりやわらかくないし、だから、スープにいれたらふやけてたべやすくなるかと思って……」
ニノは申し訳なさそうな顔になる。それを見てバースティアは大笑いした。
「旦那様、自分で工夫するのも大事なことだぞ。ニノは悪くない」
「そ、それはそうだが、俺は干し肉ははじめてなんだ。どうしていいかわからなくて当たり前だろう」
「僕は小さい頃に食べていたので……すみません。気がきかなくて……」
しょんぼりとするニノにハルベリーはあわてて言い訳をした。
「ニノが謝ることじゃない。俺も聞けばよかったんだ。悪かった」
バースティアは二人のやり取りをからかうように笑っていた。
「お前、笑いすぎだぞ」
「いやぁ、仲良くなってよかったと思ってるだけだから。気にすんなよ。旦那様」
ハルベリーはむっとしてニノに耳打ちする。
「あれがバースティアの旦那様というときの態度だ。人を小ばかにして腹が立つ」
「そうですか?あんなに楽しそうなバースティアさんを、僕は初めて見ました」
ニノもすっかり上機嫌な様子だった。ハルベリーはしかたなく、笑われておくことにした。少し腹が立つくらいのことだ。いちいち気にしていたら、身が持たないのはもう学習している。