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セルティーリアには二つの種族が住んでいた。一つは人間、もう一つは獣人。彼らの関係は大昔の戦争により主人と奴隷の関係になっているのが現状だった。人間は獣人を【亜種】と蔑み、つらくて汚い仕事をさせた。獣人は敗戦により奴隷として生きるうちにそれが当たり前と感じるようになっていた。ただ、獣人である誇りだけは決して手放さなかった。その誇りを打ち砕く者があれば、自ら命を絶つか仲間に殺されるのが彼らの掟だった。人間は決して獣人を殺さない。人間が獣人を殺してその血を浴びれば、その者と一族は三年以内に全員息絶えるからだ。獣人の犯罪者は獣人によって殺された。
そんな時代に王家の嫡子として生まれたハルベリーは、わずか三歳にして片足を失う。三日三晩謎の熱病にうかされ、左足の膝から下が壊死し始めた。どんな薬も癒しの魔法もきかず、このままでは全身に壊死が広がると判断した王は、ハルベリーの左足を自ら剣をとって切断した。その後、ハルベリーの熱はさがり、体も元の元気な状態になった。ただ、左足だけが膝から下を失ったままだった。
片足になった嫡子のハルベリーは、十歳の誕生日を迎えると皇太子になることなく大公として南の地シーガルに封じられた。息子を憐れんだ王妃は、自ら退位し、王妃の座を一番若い妾に譲ると大公とともにシーガルに隠居した。
それから五年の月日が経とうとしていた。
「退屈だな……」
ハルベリーはそうつぶやきながら、窓辺に立つと、屋敷の薔薇の手入れをしている獣人を見つめていた。紅い短い髪とふさふさした黒毛のとがった猫の耳。同じく黒くふさふさしたながい猫のしっぽ。そしてそのしっぽの中間あたりに幅の広い銀色のリングがはめてある。しっぽにリングを嵌められるということは、人間に対して絶対服従を誓った証。
ところが、あの獣人は誰に対しても、屈することはなかった。
(飼い主のいない哀れなやつだと、買ってやったのに……)
ハルベリーは見ているだけで腹立たしくなってきたので、指先に魔力を込めて小さな炎を発生させる呪文を唱えた。それはガラス窓を通り抜け、矢のように獣人の黒いしっぽへ飛んでいく。だが、ゆらりとしっぽは風をなぐように揺れて、火の魔法は音もなく掻き消えた。
(くそっ。またか……リングをされているくせに魔法が効かないなんて。本当にむかつく奴だ)
ハルベリーが歯噛みしていると、ふっと獣人が顔をあげてこっちを見た。呆れたような、憐れむような紅玉の眼がハルベリーをとらえる。ハルベリーは顔を真っ赤にして窓に背を向けた。
「絶対にあの生意気な獣人をしたがわせてやる!!」
ハルベリーは苛立ち、獣人の嫌がる魔法を調べることにした。
「まったく、飽きもせず」
一つため息をついて薔薇の手入れを再開する。ハルベリーが偶然見かけた奴隷市の片隅で悠々と眠っていたバースティア。ハルベリーは仲間からも人間からも侮蔑の視線を向けられていてふて寝しているのだと思った。そう思うと、なんだか哀れな気がして気まぐれに買ったのだ。そして、自分の世話係にしてやると言ったとき、バースティアは鼻先で笑い子守はごめんだと言った。
『そうだなぁ。薔薇の世話くらいならできるぞ。ああ、そういえば、あたしは珍しいリングをつけているから、奴隷商が高値で買ってくれるかもしれないな。ま、好きにしろよ』
そういって、にやりと笑った。母親のマリアンヌは何と無礼なと激怒し、不敬罪で処罰せよと家令に命じた。
『それで気がすむなら安いものだね。若作りの淫乱ババアとちんまい世界でしかいきてねぇ餓鬼のおもりなんざ、こっちから願い下げだよ』
バースティアは、ほらどこへいくのさと背の高い偉丈夫の家令を見上げて、意味ありげに笑う。家令はごくりと唾をのみ込み、言い返すことすらできない。まるで、蛇に睨まれたカエルのようだった。ハルベリーは知っていた。この男が母の愛人であることを。たまたま、一人で庭にでていたときだ。あずまやで、母とこの男があさましく交わる姿を目にしたのは。衝撃で走り出したい気分だったが、松葉杖では走ることすらできず、音をたてないようにゆっくりとその場を離れるしかなかった。
ハルベリーはふいによみがえった忌まわしい記憶を振り払うように言った。
『そんなに薔薇が好きなら、薔薇の面倒を見ろ。それがお前の仕事だ。食事は一日一回だ』
バースティアは、肩をすくめてへいへいお好きにどうぞと言うと、自ら奴隷小屋に入った。
あれから一年が経つ。母の愛人はいつの間にか姿を消し、また似たような家令が入って母の慰み者になっていた。ハルベリーは、毎日適当に大公の職務である書類へのハンコを押す。あきたら、バースティアにちょっかいをだす。けれど、彼女はほとんど、歯牙にもかけないし、不平も不満もいわずに毎日薔薇の世話をする。バースティア以外の奴隷は二人。年老いた庭師、雑用係の無口な青年。彼らには朝晩の二食をあたえるが、バースティアには一食だ。それも硬いパンと野菜だけのスープ。
一年経って変わったことは、二人の奴隷がバースティアを敬うように大事に接していることだった。
(俺のことは無視しておいて……仲間同士でじゃれあうなど許すものか)
ハルベリーはバースティアを呼びつけて、屋敷の地下室で寝起きしろと命じた。
「はいはい、旦那様。ほかに御用は。ないなら、いくぞ」
「まだある。そのいい加減な口のきき方を正せ」
「それは無理だな。人間ごときに丁寧な言葉など馬鹿らしい」
バースティアはニヤリと笑う。
「俺はお前の飼い主だ」
そういって、ハルベリーは手にしていた乗馬用の鞭でバースティアの頬に一撃を加える。獣人ならこの程度のスピードなどなんなく交わすと思っていた。けれどにやりと笑ったまま鞭を食らったバースティアにハルベリーは驚く。そして、彼女は頬が切れて血が流れてもまゆ一つ動かさない。ハルベリーは皮肉な笑いを浮かべたままの獣人に、気高く何者にも屈しない強さを見せつけられた気がし、ひどくみじめな気持ちになった。
「気は澄んだか?それとも、まだつづけるか」
どうでもいいというバースティアの口調がハルベリーの逆鱗に触れた。彼は何度も何度もバースティアを鞭で打ちのめそうとする。けれど、彼女は悲鳴すら上げない。膝も屈しない。服が敗れても、皮膚が裂けても憐れむような赤い目でハルベリーを見ていただけだった。
結局、つかれきったハルベリーの手から鞭が転げ落ちて、ようやく折檻が終わる。血まみれでボロボロのバースティアは、息一つ乱さず、涼しい顔で立っている。それに対してハルベリーは、辛うじて松葉杖に支えられ、激しく肩で息をしていた。まるで、自分が打ち据えられたような屈辱を味わった。
「もう、終わりだな。じゃあ、あたしは地下へ引っ越すとしよう」
待てと言おうにも、のどがカラカラで声がでないハルベリーは、なぜか目と頬に急激な熱を感じた。
「泣くほど苦しいならやめればいいのに。ほんと、餓鬼だな。旦那様」
血まみれのバースティアは、仕方ないと言わんばかりに、服で手を拭いて綺麗にすると、親指の先でハルベリーの涙を拭った。涙が止まるまで、バースティアはやさしくそっと涙を拭い続けた。ようやく、涙も止まり、声を出そうとしたときには、バースティアはハルベリーから体を遠ざけ、背をむけてドアを開けていた。
「待て……」
ハルベリーが絞り出すように言った言葉が聞こえないはずはないのに、バースティアはぱたりと静かにドアを閉めて出て行った。