嘘つきな二人
私たちの関係はとても曖昧なものだった。
私が知っている彼が本当の彼であるのかは、彼自身しか知らない。彼が知っている私が本当の私であるかは、私自身しか知らない。そんな関係だったからだ。
薄れ行く意識の中、私はこれまでに彼のことをどれだけ知ることができたんだろう、とぼんやり考えた。
「キミ、町はどっちかわかるかい?」
彼は爽やかな笑顔で声をかけてきた。それが、私たちの出会いだった。
私は、自分も町を探して歩いているのだと彼に話した。しかし、それが本当だったのかは今でもわからない。
彼に直感的な運命を感じていたから、そう答えたのかもしれない。
「同じ場所を目指しているのなら一緒に行こう。その方が安心だろう?」
彼はそう切り出した。私はしばし悩む真似をしてから承諾した。
相手が醜男なら、にべもなく断っていただろう。
共に旅をするのであれば必要だろう、と理由付けして彼の名を尋ねた。彼は、自分の名前や身分を語ることができないと言って私に詫びた。
――が、私もできることなら彼と同じように身分を明かしたくなかったので、了承の答えを返した。
私自身も身分を明かせない身だと告げると、少しはにかんでうなずく。そして、互いに相手がどんな人物であるかを知らぬまま旅が始まった。
何処までも続いているかのような広い高原。
その中に取り残されたニンゲンが二人。
決してロマンチックとはいえないけれど、その雰囲気が嫌いではなかった。
私たちは旅を始めるまえに二つの約束をした。
ひとつは、互いに相手のことを無闇に詮索しないこと。もうひとつは、自分のことについて話す時に嘘偽りの話をしてもよいこと。
つまり、私たちは相手が身分を偽って旅を続けることも厭わない、と誓ったのだ。
「オレさ、実は、犯罪者なんだよね。で、国を追われて今に至るってわけ」
そう言って彼が笑った日もあったが、それもきっと虚構だろう。――いや、私はそれが虚構であることを願っているのかもしれない。
旅をするうち、彼が悪人だなんてありえないと思うようになっていた。
……根拠もないのに。
私は心の中で小さく苦笑する。
かくいう私自身も、自分の身の上を旅の商人の娘と偽って語っていた。彼もそれを信じているように振舞ってくれていた。
夕陽がゆっくりと地平線に重なる。いつの間にか月が昇っていた。数日前まで満月だったのに、大きく抉り取られたような三日月になっていた。
なんだか、私の心に似ている。
遠くに微かに町の建物のような影や明かりが見える。楽しい私たちの旅が、もうすぐ終わろうとしているのだ。
あそこへ着けば、私たちは他人に戻る。それが何とも悲しく思えた。
私が溜息をついたのと同時に、彼も大きく息を吐いた。
その吐息のせいで、本当のことを話したら彼はもっとずっと一緒にいてくれるんじゃないかと甘い幻想を抱いてしまった。
そして、ついに自分の中での決め事を破ってしまった。
「私ね、ある国の姫なの」
いつものように冗談めかして言ったつもりが、思いのほか重い口調になってしまった。
思いつめたような私の声に、彼がはっとして私を見る。
「……っ」
右手の指先に激痛が走った。
――始まってしまった。
自分でやったことながら、後悔が湧いてくる。
「……キミ、今なんて……?」
彼は驚愕の表情のまま私を凝視していた。
私はにこっと笑って、「何でもないよ」と答えた。しかし、指先の激痛が衰えることは決してなかった。
いつの間にか、痛みは右手全体に広がっていた。
もう手首から先の感覚がない。それでも彼に気付かれないように、平静を装い歩き続けた。
『あなた、大変なものを背負っているわね』
いつか出会った、優しい魔女の声がよみがえる。
そう。あれは、まだ私が生まれ育った国を出てすぐの頃のこと……。
「軍が反乱を起こしたぞ!」
市民たちの騒ぐ声が町に響く。市民の一部と、陸軍が反乱を起こしたのだった。その面々から、陰で糸を引いている首謀者はすぐに特定できた。
だから、私は慌てふためくわけでもなく、ただ窓辺でお父様の軍が反乱軍を制圧する様子を眺めていた。
しかし、事態は急変した。
お父様の軍隊が、市民と隣国の連合軍に奇襲にあったのだ。予想外の敵襲に、軍は大きなダメージを受けた。
――もしかしたらこのまま国が落ちるかもしれない。
大臣たちの話す、決して小さいとは言えない声が広間に響いた。中には、突然国から出て姿を消す者もあった。
私の身を案じたお母様に市民と同じ服を着せられ、初めて見る抜け道へ押し込まれた。
不安に押しつぶされそうになりながら抜け道を出ると、そこは城の裏に広がる森の前だった。そこには、待ち構えるように老婆が立っている。
黒い衣装で、彼女が魔女だということがわかった。
魔女は私を見るなり呪文を唱え、呪いをかけた。避けることもできず、体に当たって弾けた光をただ見つめる。
急に恐怖に襲われて、その呪いが何であるか知らぬまま、がむしゃらに逃げた。老婆は追いかけてくることはなかった。
それでも、私は走り続けた。
逃げ延びた先で出会ったのが、優しい魔女だった。
彼女は私がかけられた呪いが何であるかを教えてくれた。誰かに身分を明かせば、その時点から私の体は徐々に呪いに蝕まれて死に至るらしい。
だから、決して身分は明かしてはいけないよ、と諭された。
私に呪いをかけた老婆の意図が、ちっとも掴めなかった。
殺すのであれば一思いに殺して欲しかった。それなのに、なぜこんなに回りくどいことを?
今になって、思い至る。
老婆は私を殺すつもりはなかったのだろう。むしろ、私の逃亡を手助けするためにかけた術だったのではないか、と。
お父様は敵が多い人だった。評判も、国内外問わずすこぶる悪かった。もし敵側の人間に身分が割れてしまえば、私は嬲り殺されることだろう。その前に、私が苦しまずに済むようにするために掛けてくれた術なのではないかと思った。そう思わなければ、やっていられなかった。
呪いが発動するのは、自ら身分を話した時だけだ。相手に知られているだけならば、発動はしない。
身に危険が迫った瞬間に身分を明かせばいいのだろうけれど、いつ何が起きるかわからない。極力人との接触を避け、ひとりで旅を始めた。
旅をするうち、いくつかの街を通りかかった。どの人を見ても、私の命を狙っているようにしか見えない。そのせいで、ひと所に長くとどまることができない日々が続いた。
一人で歩き続ける旅に、嫌気がさしていた。
――拷問をされてもいい。次の街に着いたらそこで暮らそう。安息の地などこの世界にはないのだろうから。
そう思っていた時、彼に出会った。彼は私にとって、気取らずに話せるよい同行者であり、友人だった。
愚かな私は、彼との別れを苦にして呪いを発動させた。ここで死ねば、幸せなまま人生を終えることができるはずだ。
痛みは右腕全体に広がり、ついに左腕を蝕み始めた。
オレは彼女の言葉に困惑していた。聞き間違いではなければ、彼女は自らを姫だといった。
彼女はその後、無理して笑って見せてくれたけど、なんだか辛そうだった。
その後、彼女はうつむいて押し黙ってしまった。
――きっと、本当のことなのだろう。彼女が真実を語ってくれた今、オレも正直に話すべきなんじゃないか……。
「オレさ、犯罪者って言ったじゃん。あれ、半分ホントで半分ウソなの。実際はね、オレの親父が軍を率いて反乱起こしてさ、その後こう」
腹を決めたオレは一息でそう言うと、手で首を切る動作をした。
「それでお袋とオレが国にいられなくなって逃げてきたんだけどさ、お袋は途中で死んじまった。……俺をかばって撃たれたんだ。バカだよな」
オレは出来るだけ明るく語った。その直後、指先に鋭い痛みが走った。
私は急に明るく話し出した彼に呆気に取られた。そんなこと、言わなくてもわかっているのに。
首謀者の大臣は、お父様と真っ向から対立していたひとだ。私もその大臣のことは敵だと思っていた。けれど……。
「……キミはサーシャ姫だろ?」
彼は思い切ったようにその名を口にした。
「……ええ」
長年使われてきたその名に、私はこれまでと変わらない調子で答える。
二人の間に重い沈黙が訪れた。その間にも、痛みは広がっていく。一秒一秒がもったいなくて、ぽつりと漏らした。
「昔、二人で遊んだことがあったわね。覚えている?」
「もちろんさ。親が敵同士だなんて知らなかったからね」
「今は? 私のこと、殺したくてたまらない?」
「うん。……って言ったら?」
痛みが、ついに心に突き刺さった。心臓が痛くなるのをこらえて、笑顔を作った。
「あなたの願いはすぐに叶う事になるわ。私はもうすぐ死ぬの。呪いをかけられているから」
ついに言ってしまった。
本当は彼にだけは知られたくなかったことなのに。彼がこの話を嘘だと思ってくれたらいいのに。そう思った。
でも、全てを話すと、とても気持ちが楽になった。
「そうか……。オレが何かしてやれたらいいんだけどな……。ごめんな、何もできなくて……」
彼は、優しく言ってくれた。
私の目にはいつの間にか涙が溢れていた。もうとっくの昔に枯れ果ててしまったと思っていたのに。涙はとどまることなく流れ続けた。
私の両腕はもう感覚がなく、動かすことも困難だった。足もほとんど宙を歩いているかのような感覚だ。
あとどのくらいの時間を、彼と過ごせるのだろう。
オレと彼女はついに互いの本当の身分を明かした……のだろう。もし彼女が本当の話をしていたのなら、の話だが。
少なくとも、オレと姫が遊んだことがあるのは事実だ。彼女のことを知った上で、わざと声をかけた。
国を逃れた時期も違うのに、あんな所で出会えたのだ。神の啓示に違いない。
オレは歓喜に震えた。
彼女はオレのことを知らないようだったが、身の上を明かしても驚かないのを見るに気が付いていたようだ。
この広い高原では身分など何の意味も持たないものだと、彼女と旅を始めてから気付いた。たとえそれを偽っていたとしても、支障をきたす事はなかったのだ。むしろ、物事が潤滑に進んですらいる。
その事実が、無性に悲しかった。
隣で泣きじゃくる彼女の肩に右手をかけようとして、腕が動かないことに気付いた。見てみれば、手は気持ち悪いくらいの紫色に変色している。感覚はすでになくなっていた。
かろうじて動く左手で、彼女の頭を撫でる。ぎこちない姿勢になったが、彼女は何も言わなかった。
首から上だけを動かしてオレの顔を見上げた彼女の両手は、痛々しいほどに変色していた。スカートからのぞく細い足も、手ほどひどくはないが色が変わり始めている。
「この辺で休もう」
オレは、草むらに腰を下ろした。
彼女も倒れこむように草むらへ寝転ぶ。
「大丈夫か?」
大丈夫ではないのをわかっていながら、オレはそれしか言うことができなかった。
「うん。あなたがいてくれるだけで、私は平気」
彼女はそう言ってくれたが、それは本当だろうか? もしかしたら……嘘かもしれない。
「ウソじゃないよ」
オレの心を見透かしたように彼女は笑った。その笑顔も、今までの柔らかなものではなく、少しこわばったような、無理をしているような笑顔だった。
「ねえ、私の故郷は……今、どうなっているの?」
彼女は急に遠くを見つめた。
「ああ……とても平和だ。昔のように、な。
国王もご健在だよ」
オレは空を見上げて答えた。それは彼女のための……最後の嘘。
嘘つきのオレを問い詰めるような鋭い三日月が、いつの間にか俺たちの真上にいるのが見えた。
内戦は終わったことには終わっていた。……が、それは平和が訪れたと言う意味ではない。
都は既に落ち、国王も、一般兵に射殺された。その現場をオレも見た。公開処刑、なんて言い方は失礼かもしれないが、本当にそんな感じだった。
そして、オレの親父の直属の、同僚からも怖れられていた部下による新たな独裁政治が始まり、国民たちは新たな不満を募らせ、現在も一触即発の状況が、かろうじて続いていると言うだけだった。
「そう……、良かったわ……。じゃあ……もう少ししたら……一緒に……国に……帰りましょう…………よ」
安心したように彼女の口はそれだけ言うと硬く閉ざされた。ついに麻痺が口をも蝕んでしまったのだ。
「ああ。約束だ」
オレはできるだけ明るく振舞った。しかし、声には本心がにじみ出ている気がした。
――彼女の耳は、まだ機能しているだろうか?
声をかけて反応がなかったらと考えると、オレの口も動かなくなってしまった。沈黙がつらい。体よりも心の方が痛くなってきた。
しばらくすると、彼女の目は開けているのも辛そうになった。
「目、閉じてて」
その声が伝わったのか、それとも自然にそのときを迎えたのか、彼女は目を閉じた。
もう感覚がないであろう彼女の唇に、感覚の薄れてきている自分の唇をそっと重ねた。
彼女の瞳から、最後の雫が零れ落ちた。
あっという間に全身の感覚は消え去り、彼女を見つめたままオレは動けなくなった。
その時、ふと彼女はオレの嘘をどこまで見抜いていたのだろう、と不安になった。――が、すぐにその思考も草原の風に飲み込まれる。
オレは、抉り取られた三日月に彼女と共に腰掛けて無意味な談笑をする夢を見た。
果たしてこれは、夢か、現か――。
不幸なニンゲン、高原に二人。
見下ろすは沈黙の三日月。
静けさは、永遠――。