94
「無駄に絡まれた気はしますけど…どちらかというと意地悪をされた気が…」
「あげはったら、人の事には敏感なのに、自分の事には鈍感すぎましてよ?それとも、意識的に避けていらっしゃるの?」
「…意識的?」
「ええ。少なくとも、しーちゃんの事を毛嫌いはしてはいらっしゃらないでしょう?」
意味深に微笑んだ美菜先生に、何故だか胸を抉られた気がした。
「…そんな風に…見えますか?」
「本当にお嫌いなら、レイプ紛いの事をされてそのように落ち着いてなどいられませんわ」
「レ、レイ…」
歯に衣着せぬ美菜先生の言葉に、そういう事をされたのだと今更ながらに気付かされる。
普通なら、榊紫苑に対して怯えたり、嫌とか、不快な気分になっても不思議ではないのに、今の私にそんな気持ちは全くない。
「しーちゃんの扱いには困ってはいても、彼が嫌いという風には見えませんわ」
生理的に受け付けないレベルの嫌いではない。
セクハラまがいの行動や人を振り回す行為は嫌だけど、いつの間にか榊紫苑本人が嫌いではなくなっている。
昨日だって、泣いてしまった時も嫌な顔一つしないで思いっきり泣かせてくれたし、その後も気まずさなんて感じさせずに気持ちを切り替えさせてくれた。
本当は良い人なのかもしれないって、思っていたのに…。
あんな風にいつも急に、真面目な顔をして『男の人』になられたら、どうしていいのかわからない。
「…あげは、お顔が赤いわよ?」
「ぅ…な、何でもありません」
うっかり榊紫苑に押し倒された時のことを思い出してしまい、恥ずかしくなってナフキンで顔を隠した。
「貴女を見ていると、好きな人を前にどう行動してよいのか分からない…そんな感じですわね」
驚きのあまり、持っていたナフキンを落としてしまった。
美菜先生は、苦微笑を浮かべる。
「健が不機嫌になった訳がわかりましたわ」
「…それは昨日、私がぼんやりしてて…院長に呆れられてしまったからです」
「違いますわ。貴女としーちゃんが仲良くなるのが気に入らなかっただけよ。健もしーちゃんも、大人げなくひねくれていて困りますわ…しーちゃんなんて、珍しくあたくしの警告も聞かずに貴方に手をお出しになるし…」
美菜先生は小さくため息を漏らして、首を横に振る。
院長が気に入らないのは、榊紫苑と接触すると、私が仕事の集中力を欠いて仕事に支障が出てしまうからだと思うのだけど…。
それより気になるのは、榊紫苑が恒常的に美菜先生にたしなめられているといるのかという点。
普段、彼はあんな形で女性にアプローチしているのだろうかと、ふと疑問に思う。
「…美菜先生は、榊さんに口説かれたり…しないんですか?」
身近にいる美菜先生に尋ねると、彼女は眉間に深いしわを寄せた。
「しーちゃんが高校生だった頃から存じ上げていますけど、女が寄って口説くことはあっても、自分からはなさったことはありませんわ」
「…え?」
「あの子、外面の良いフェミニストですもの。本来の彼は極度の女性不信ですから、自発的に女性へ近付く様なことはありませんわ。特にあたくしの様な女にはね」
「女嫌い?彼が?」
母親に対してはあまり快い感情はないように見えたけれど、私に対しての彼の行動を見る限り、女嫌いも、自分から口説かないなんてことも考えられない。
美菜先生は苦笑いする。
「しーちゃん曰く、あたくしを見ると自分の母親を思い出すそうよ」
「榊さんの…母親…ですか?」
そう言えば、榊紫苑は自分の母親に対してあまり良い感情を抱いていない様な発言をしていたっけ。
「とても美しい女性で、お若い頃は、トップモデルをなさっていましたの。それ故に、良くも悪くも女である己を捨てられなかった方だと、健が申しておりましたわ」
彼は自分の顔は母親似だと言っていたから、彼の顔のつくりと同じ顔の女性なら傾国の美女級なのだろうなと思う。
「母親になりきれず、病気がちだった幼いしーちゃんを日本に置き去りにして失踪してしまったそうよ」
「し、失踪ですか?」
「ええ。現在に至るまで音信不通状態なの」
「で、でも、榊さん、自分は妾腹の子だっておっしゃってましたけど…お父様の方に引き取られたんですか?」
「そうよ。ただ、お兄様方や御両親と折り合いが悪くて、十歳の頃から海外留学の名目で家を出されていたそうよ。日本に戻ってきても、家には殆ど戻らず学校へも行かず…随分と荒れた生活を送って、家に戻ると喧嘩ばかりだったようね」
衝撃的な事実に、何と言ってよいのか分からなくなる。
女遊びは奔放だけど体裁と面子も人一倍の榊の一族だから、『愛人の子供』に対する風当たりも強いのは想像に難くない。
「それを見かねた健が、しーちゃんを自分のマンションに連れて来て、あれこれ世話を焼いたようですけど…歪んだ性格の矯正が一番難しかったみたいね」
「性格…悪いんですか?」
少なくとも人当たりが良いのは表面的なことは分かるけど、歪んでいると言うほど酷くはねじ曲がっていない気がするのに。
「今でこそ、上手に猫をかぶりますけど、出逢った頃は生意気で口の利き方を知らない憎たらしい子でしたわ」
わずかに唇の端を釣り上げた美菜先生の美しい顔に、絶対零度の怒りが宿っている。
よほど、榊紫苑はお行儀の悪い事を美菜先生にしでかしたに違いない。
そして、美菜先生が『きつい躾』を施して、榊紫苑は美菜先生が苦手になってしまったのだろうと、安易に想像がついてしまった。
「…しーちゃんも、あの家庭環境では、捻くれるより仕方がなかったのだと思いますわ。父親の方は、しーちゃんをいまだに冷遇なさっていますし」
母親に捨てられて、父親にも冷たくされ、半分とはいえ血の繋がった兄弟とも不仲。
一番身近にいる人間からぞんざいな扱いをされたら、内気になって怯えるか、捻くれて反発するしかない。
榊紫苑は後者だっただけ。
自分の足で立つ事さえできない子供がそんな大人を見て行きつく先は、『人間不信』。
成人して自立した自分でさえ、両親の裏切りで人間不信に一時陥っていたのだから…。
「医者として権力を持っていた父親に冷遇されたせいで、病院に入院している時に医療スタッフも妾腹の子だと、しーちゃんに対しての態度が悪かったそうよ」
「そんな…」
妾腹として生まれたのは榊さんの所為じゃない。その為に、医療スタッフの態度が変わることも、待遇を変えることなんて絶対あってはいけないのに。
それでなくても、子供の心は繊細で傷つきやすいから、心に傷を負いやすいのに。
同じ医療に携わる立場として、そんな人間がいるのが悔しくて恥ずかしい。