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インターホンの音が遠くから聞こえ、その音が自分のアパートの物ではない事に気付いて、微睡から現実に引き戻される。
何時もより少し窮屈さを感じながら、ゆっくりと瞼を開けば、色素の薄い肌色の壁。それが男性の鍛えられた胸板だと気付いて、私は慌てて上肢を仰け反らせた。
けれど突然、唸るような短い声と共に、体に絡みついた温もりが強い力になって、思った方向とは真逆に体が動いた。
頬が目の前の胸板に押し当てられ、離れるはずが逆に密着してしまった。
穏やかな鼓動が、温もりと共に皮膚を通して伝わってくる。
身を摺り寄せるように私を抱きしめる相手を、そっと顔を上げて見れば、眉間にしわを寄せて眠る榊紫苑の顔がある。
彼の顔を見た瞬間、何故だか酷く切ない気分になる。
彼は行為を最後まで続けることはしなかった。
途中で出来なくなったと、言った方が良いのかもしれない。
私が子供の様にまた泣いてしまったから。
何を口走ったのか覚えていないけど、酷く彼を困らせたのだけは覚えている。
『俺に何度もお預け喰らわせるなんて、貴女だけだよ…』
困惑と苦々しさを含んだ表情でそう言いながら、榊紫苑は乱れた私の着衣を戻してそのまま寝室のベッドに運んでくれた。何度か頭を撫でた後、彼は寝室から出て行った。
私は泣くことを止めることが出来なくて、動くことも出来なくて、泣き疲れていつの間にか眠りに落ちていた。
それを思い出して、苦しくなる。
彼からしたら、こんな面倒な女なのに。帰れって、怒って突き放したいはずなのに。それをしなかった彼の優しさで、心が痛い。
呆れて嫌ってくれたらよかったのに。
“…あれ…どうしてこの人、裸で一緒に寝てるの?”
何気なく自分を確認すると、服は着ていているけど、シャツのボタンが三つ目まで外されて胸の谷間が見える。薄暗くてよく分からないけど、胸にたくさん榊紫苑が付けた痕が見えた。
“な、なんで?”
確かシャツは首元まで榊紫苑が留めてくれたはずなのに…。
彼は上半身裸で、下は…事実確認するのが怖くて見られない。触れる彼の脚の感触から、フルヌードな予感がひしひしするから。
榊紫苑は眠る時にシャツやズボンを脱ぐ癖があるのかとも思ったけれど、私の家に泊まった時は服を着ていたし…。
しかも、彼はいつの間に一緒に寝ていたのだろう。
ベッドはこれ一つだけで、キングサイズだから、二人で寝ても余裕の広さだけど。
でも、恋人でもない異性と、しかもあんな微妙なことがあった後で、こんなに密着して寝るのはあり得ない。
というか、普通はしない…という結論に至るまで、長い時間を要してしまった。
その間にもインターホンは鳴り続け、しかも連打に近い状態で間断なく続く。
家主はこの音に反応していないけれど、このままにしておく訳にもいかない。
榊紫苑の腕の中から抜け出そうと、添えられるだけの腕をそっと動かして体の向きを変えようとした時、また強い力に引き寄せられる。
更に榊紫苑に密着し、彼の顔が間近になって息をのむ。
“も、もしかしてタヌキ根入り!?”
二度も同じタイミングで動くなんて、絶対に起きているとしか思えない。
「…どこ行くの」
瞼は閉じたまま、眉間にしわを寄せた榊紫苑は、眠たげな声でぼそりと呟く。
やっぱり起きていたらしい彼は、瞼はきつく閉じたまま。
「インターホンが…」
「そのうち諦める」
欠伸を噛み殺しながら、面倒くさそうに呟く。
「あ、諦めるって…」
そう言う訳にはいかない。百歩譲って、インターホンの対応は諦めるとしても、昨日の今日でこのポジションで顔を突き合わせるのは、私でも拙いって分かる。
私が榊紫苑の腕から抜け出そうと必死で足掻いているうち、インターホンの音が止まる。
それでも、私がもがいていると、榊紫苑の瞼が重たげに開く。
「…大人しくしないと、今度は本当に犯る」
私を見るその瞳は、酷く不機嫌で剣呑な光を宿していた。
それが、怒っているのか、単に寝起きが悪いせいなのか分からない。
ただ低く呟かれた言葉は冗談には聞こえず、見が竦むほど怖くて抵抗が自然に止まる。
動かなくなった私の額に、榊紫苑は眉根を寄せたまま、キスを落としてそのまま瞼を閉じた。
すぐにまた規則正しい寝息が聞こえる。
“こ、これ…どうしたら良いの!?”
身動きが取れず、どうしようかと困り果てていた時、玄関の方から鍵を解錠する音がして、扉が開く音がする。
“え…誰か入って来た!?う、嘘!?どうしよう!ど、泥棒!!?”
慌てて榊紫苑を激しくゆする。
「さ、榊さん!誰か来ましたっ!鍵、ガチャッって…」
「うるさい」
二度も睡眠を邪魔された榊紫苑は、カッと目を見開いてそう言い放つと同時に、私の体をベッドに押さえつけ馬乗りになる。
「俺の眠りを二度も邪魔した上に、『榊』?…物覚え悪いのか、犯られたいのかどっちだ?」
私を見下ろす榊紫苑は、互いの鼻が触れるくらい近くに顔を寄せ、人でも殺せるくらい凶悪な視線で私を睨む。
絶対に榊紫苑は寝起きの悪い人だ。
“や、やるって…『殺る』の方!?”
本当に人でも殺してしまいそうな鋭い睨みに、恐怖のあまり視界が水面に揺れる。
「ご、ごめんな…」
「しーちゃん!あげはを何処にお隠し…」
反射的に謝罪の言葉が出たけれど、勢いよく開け放たれた寝室の扉の音と、同時に寝室に入り込んできた人物の声で遮られた。
が、入ってきた人物は、私たちを見て美麗な顔を凍りつかせて動きまで静止した。
「美菜せんせぇ…」
どうして此処に?と尋ねようとしたのに、榊紫苑が怖すぎて涙声で満足に名前を呼ぶことさえできなかった。
いつでも完璧な装いの美菜先生は、ゆっくりと私と榊紫苑を交互に見た後、ゆっくり目を閉じて深呼吸した。
再び瞼を開いた美菜先生は、鬼の様な形相でベッドにいる私たちの前に足早に詰め寄ると、ものすごい剣幕で一喝した。
「嫁入り前の娘に、手を出すとは何事です!!!」
華やかな容姿とは裏腹に、古風でストイックな貞操観念の美菜先生は、その後、榊紫苑に問答無用のきついお灸を据えた。