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大嫌いな母親と同じように、身勝手な感情を吉良に向けている。それを分かっているのに、俺は苛立ちを募らせて、行動を止めるどころか加速させる。
「んっ!駄目ですっ、榊さんっ!やっ…助けて、いんちょ、ぅんっ!」
健斗に助けを求める聞き捨てならない一言に、俺の中で何かがブツリと音を立て、黒い感情の衝動に突き動かされるように、肩口のシャツを引き落とし、露わになった吉良の柔肌にきつく吸いつく。
「こんな時に、健斗を呼ぶな」
吹き上げるような怒りが、俺の声から抑揚を奪っていく。
身を強張らせた吉良の体を捻り、そのまま近くにあった冷蔵庫に吉良を押し付け、強引に怯えた表情の吉良の唇を塞ぐ。
顎を捕え、強引に口を開かせて、拒む吉良の腔内を貪る。
抵抗する吉良の手を捻りあげて、優しさなんて微塵もなく荒々しく吉良を求めて口づければ、吉良は苦しげな息を口から零す。
その吐息に少しずつ苦しげで甘い響きが混じり、喘ぎにも似たそれは、俺の聴覚を犯して理性を壊していく。
少しずつ失われていく相手の抵抗。
俺が求めるままにキスに応じたようにも見える吉良に、俺はキスを止めた。
間近で吉良を見下ろせば、首に赤い鬱血を刻んだ吉良が潤んだ瞳で訳が解らないと言うように俺を見上げていた。
上気した頬、肌蹴た肩を揺らすような乱れた呼吸。
その一つ一つが、作られていた自分を崩していく。
「貴女の前にいるのは誰だ?健斗か?」
吉良は反射的に俺の言葉に首を横に振る。
「俺は誰だ?」
「さ、榊さん…です」
その答えは、気に入らなかった。
吉良の唾液に濡れた艶やかな唇を、舌先でなぞる。
「紫苑…だろ」
呼んでほしい。俺の名前を。
泣きだしそうな顔で、更に顔を朱に染めた吉良は、眼を見開いたまま固まった。
「呼べないなら、呼べるまで体に教えようか?」
「よ、呼びます!呼びますから!」
吉良は瞬時にそう返答をする。よほど、この状況が嫌らしい。それはそれでムカつくが、強引すぎるぐらいの行動をとらなければ彼女は理解しない。鈍すぎて。
だが、その先の言葉は出ない。何度も口を開きかけては、声を成さないまま閉じる。
何を躊躇う事があるのだろう。たかが、名前を呼ぶ程度で。
健斗すら名前で呼ばない吉良に名を呼ばれれば、少しくらいはこのどうしようもない衝動は落ち着いたかもしれない。
目に涙を溜めたまま、俺を見つめてくる大粒の瞳は逸らされることはない。
まるで救いを求めているようで、胸の奥で有るのかも分からない良心がじくじくと疼く。此処で止めようと心が揺らぐが、体を支配する衝動を抑止する力にはならない。
「…残念、時間切れ」
少し待つことも焦れた俺は、相手の唇を再び塞ぐ。
「っ…さか…」
喋れるように手加減したのに、吉良から漏れた呼び方に思わず舌打ちが漏れる。
大きく開け放たれたシャツの襟口から露わになる肌に、咬みつくように口づけをし、足掻く吉良を力ずくで抑え込む。
俺の思い通りにはならない、彼女が嫌いで。
ただ自分を見て求めて欲しい、そんな独占欲ばかりが自分を支配して心が焦れて、
「やっ…紫苑…さん…やだっ…」
か細く震える声がようやく俺の名を呼んで、吉良を見れば、彼女は涙を零していた。
その姿に、彼女を押さえていた腕の力が自然と緩み、吉良は手で口元を押さえ、こみ上げる嗚咽を必死に堪えて顔を逸らす。
「ちゃんと…しお、ん…さんって…呼ぶからっ、こんなこと…や、です」
嗚咽交じりにそう訴えかけて震えるその体が、俺への恐怖を訴えかける。
冷静になって頭が冷えてくる感覚があるのに、心はまだ熱が燻っている。
吉良に対する罪悪感は膨れるのに、それを麻痺させる衝動が拮抗する。
一度、ゆっくりと深呼吸をして、そっと吉良の顔に手を伸ばす。
吉良が怯えるようにその手をじっと見、頬に触れればびくりと身を震わせる。
「…ごめん」
涙を指で何度も拭い、吉良の頭をあやすように撫で、吉良の口元に重ねられた彼女の手の背に優しく口付ける。
「…吉良、もう一度、紫苑って呼んで?」
「…紫苑、さん?」
躊躇いがちに呟かれた言葉は、俺が想像していた以上に、俺の心をくすぐる。
手に押さえられてくぐもった声。震えた声ではなくて、もっと違う声で聞きたい。
そう思うと同時に彼女の手をそっと取って、爪の先へ口付ける。
「さんはいらない」
爪の先から指へ、手の背へと口付け、掌に唇をよせたまま。彼女の手首をきつく握って見下ろす。
「っ…し…おん?」
少しだけ警戒心の抜けた彼女の声は、戸惑っている。
「そう…もう一度」
「紫苑」
今度は、普段に近い。そんな声じゃない、俺が欲しいのは。
「もう一度」
「紫苑んっ」
彼女が声を放つのと同時に、彼女の手の腹を舐めあげれば、蟲惑的な声音が漏れる。
甘美で、俺の慾を満たしてくれる。それだけで、自分の口元が歪むのが分かる。
俺はそっと吉良の額に口付け、鼻の頭に、頬にもキスを落とす。
「そうやって、ずっと俺を呼んで。貴女にだけ、そう呼ばれたい」
自分でも驚くほどに甘い声で、潤む瞳で俺を見る吉良に囁いていた。
もっと、聞いていたい。彼女が俺を呼ぶ声を。
「…好きだよ、吉良」
だから渡さない。健斗には絶対。
健斗が入る余地などないくらい、吉良の中に俺を満たし尽くしてやる。
ゆっくりと触れた互いの唇が、それまで以上に熱を孕んで淫靡に交わって、俺はどうしようもなく吉良に溺れていった。