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“俺は待つ時間をどうするか…”
キッチンに足を運んで、冷蔵庫から五〇〇mlの缶ビールを取り出してプルトップを開きながらリビングに戻る。
ソファーに腰を下ろし、テレビをつけ、ビールに口をつけながら思考をめぐらせる。
“珍しく、吉良に余裕がなかったけど…健斗と何かあったのか?”
吉良が本気で怒った上に、突如、泣き出してしまうとは予想していなかった。
怒っても諌める程度だと思っていた。
『…これ以上…院長に呆れられたら困るんです…』
そういわれた時は、また健斗かってイラっとしたけれど、健斗ではなく仕事に固執しているような言葉と共に変化した彼女の様子に嫌な予感がした。
焦燥と、不安の入り混じったような動揺が見えて、少しずつ強張っていった表情に一瞬、俺と同じような発作でも起こすのではないかと思った。
“仕事で何かあったのは確実だな”
普段なら健斗に聞くところだが、連絡するのも今は癪に障る。
無理に聞き出す性分ではないけれど、あんな風に泣かれたら気にはなる。
というか、気になりすぎてモヤモヤしているのに、聞き出す言葉が出てこなかった。
涙する吉良の震える体が頼りなくて、どうにかしたくて抱きしめた挙句、自分の家に連れてきてしまうくらい放ってはおけなくて。
かといって、二人っきりになっても、吉良に対して何か出来るわけでもなく、こうして心の距離を保つ。
いつもなら泣いている女性なんて適当に宥めすかすことが出来るのに、それも出来ない。
彼女との距離感が解らない。
一気にビールを飲み干して、空き缶をガラステーブルの上に置くと、ソファーに寝転がり目を隠すように腕を顔の上に乗せる。
“俺、何をやっているんだろうな…相手が吉良だと調子狂う”
無意識にため息が洩れる。
最近、吉良を前にすると心臓が煩い。心が騒がしくて、落ち着いていられない。
彼女が好きだと自覚してから、更にその症状はひどい。
今も、心臓の拍動が著しく騒ぎ立てている。
寝ても覚めても、吉良の事が頭から離れなくて、会いたくなって気付けば彼女を追う自分が居るのに。
いざ、彼女の前に立てばいつもの自分らしさがまるでなくて、吉良の心を引き寄せたいのに平行線どころか、離れていくようで。
これまで、俺が誘って断った女なんていない。
何時だって俺の都合に相手側が合わせていたし、そうなるように仕向けてはいた。
吉良の様に、俺の誘いを断って、俺の行動を窘めるような女は居なかった。
よくよく考えれば、面倒臭くて相手にしたくないタイプなのに惹かれて仕方ない。
冷静ではいられなくて、相手に無関心ではいられない。
自分が作り出した俳優、上坂伊織のスタイリッシュでクールなイメージの欠片もない、ダメな人間ぶりを彼女に晒してしまう。
そもそも、吉良は俺が上坂伊織だってことにも気付いていない。だから、自分が気を張って上坂伊織を演じなくても良かったから、余計に。
“これじゃあ、子供の頃の何もできない自分のままじゃないか”
上坂伊織の仮面を外した素の俺には、何もない。無力な子供のまま何も成長していない事に、気付かされる。外見だけで中身のない人間だと。
あまつさえ、真逆な存在である母親と吉良を重ねるって、どういう神経をしているのだろう俺は。情けなさ過ぎて自分が嫌になる。
「…榊さん?」
気付けば近くで、吉良が俺を覗き込んでいた。
時計を見れば、時間はあれから一時間近く経っていた。
意外に早く戻ってきた彼女は、目の腫れも少し引いて、薄化粧をきちんとしている。
ほとんど、何時もの吉良だ。それに安堵する。
「もう良いの?」
「すみませんでした…色々」
吉良は礼儀正しく頭を下げて、俺に謝罪の言葉を述べた。
このような状況でも、彼女は生真面目なのだと思って、少し笑えた。
だからこそ、吉良は良いのかもしれない。誰にでも飾らず媚びないから。
「たぶん俺、吉良の近所の人に女を泣かせた悪い男だって思われているかもね。野次馬が結構いたし」
「!ほ、本当に、すみません!」
吉良の方が近所の人の目線がきつくなるはずなのに、申し訳なさそうにまた謝る。
優しい言葉をかけてあげたいけど、また変に意識されても困るし変な距離感を持たれるのは嫌だった。
「謝罪の言葉より、行動で返してくれると嬉しいんだけど?」
俺を窺うように顔を上げた吉良に、俺は小さく笑いソファーから立ち上がると、答えに困っている吉良を尻目にキッチンへ向かう。
「第一希望としてご飯を作ってほしい所だけど…冷蔵庫の中身はこれだけだから…まあ、気にしないで。これで済ませるから」
冷蔵庫を開けて、冷やしてあった缶ビールを二本取り出して吉良に見せる。
「…ビール?…まさか、それだけとか?」
「そうだけど?」
元々から、ロケ弁当も外食も、食べはするけれど量を受け付けない。
夜は特に食事が喉を通らないから、代わりに酒を飲んで寝る生活が恒常的だった。
吉良が作り置きをしてくれた食事は普通に食べられたのに、それが無くなれば元の生活に逆戻りで。
無性に吉良の食事が食べたくなって、今日だって足は自然に彼女の家に向いていた。
彼女が戻ってくる時間なんて分からないし、不在だってわかった時点でさっさと帰ることも出来た。だけど、待った。
普段なら、いつ来るかもしれない相手を待つことなんて馬鹿げているから絶対にしないのに、今日は 待つことが苦痛ではなかった。
たぶん、吉良じゃなかったら会いに行くことすらしなかっただろう。
「…榊さん、ビールはご飯の代わりになりません」
「知っている。でも、腹は膨れるから」
吉良は困ったようにため息を漏らす。
「そんな生活をしていたら、肝臓を壊します…簡単なご飯用意しますから、ビールは冷蔵庫に返して下さい」
少し前まで泣いていたとは思えない程、吉良はきびきびとした行動で俺の晩御飯を作ってくれた。