86 ~紫苑side~
第十七章 加速する想いに惑う夜
女の涙なんて、見飽きていた。
情念に駆られた醜い泣き顔も、美しく綺麗過ぎる演技の涙も。
駆け引きのように扱われる女の涙に、価値など見出せなかった。
これまでも、人が泣いている所など見ても心は何一つ動いたことはない。
なのに、泣くまいと抗いながらも涙を抑えきれない吉良を見た時、酷く狼狽する自分が居た。
酷く思いつめた表情をして「帰って」と言う彼女の姿に、胸が締め付けられるように痛んで苦しくなった瞬間、俺の脳裏に不意に母親の姿がよぎる。
『シオン…』
そう言いながら俺を覗き込み、吉良と同じような酷く思いつめた顔をして泣いている母。
俺と似た顔はいつも自信に満ち溢れ、ネガティブさなど一切見たことのない高慢な笑顔ばかりの母親なのに、どうしてそんな姿が記憶の隅にあるのか分からない。
分かるのは、「泣かないで」と…「ごめんなさい」と言いたかったのに言えず、自分の頬に振ってくる母の涙を拭う事さえできなった時の切なく悲しい気持ち。
“また俺のせいで苦しめた…”
気付いたら彼女を抱きしめて謝っていた。
吉良には泣いてほしくない。母さんのように、そのまま俺の前から消えてほしくなかった。
§
あの後、近所の住人が野次馬に出てきたので、泣き止まない吉良を強引に引っ張って、車に乗せて俺のマンションに連れてきた。
何を出していいのか分からなかったから、とりあえず、インスタントコーヒーをうまれて初めて作った。
「…すいません」
俺が差し出したマグカップを受け取った吉良は、鼻を啜りながら真っ赤な眼を伏せた。
来たときはまだ涙が止まらなかったけれど、俺がお湯を沸かしている間に、少しは涙も止まったようだった。
吉良の座るソファーの隣に腰を下ろして彼女を見れば、吉良はマグカップに口をつけずに、食い入るように中を覗き込んでいる。
「…何か変?」
顔を上げた吉良は何も言わずに、カップに口をつける。コーヒーを口に入れた瞬間、吉良は複雑な表情をして固まる。
「どうしたの?」
「…い、いえ」
口のものを一生懸命に飲み下したものの、吉良は言葉を濁した。
「…ちょっと貸して」
「あ…」
俺は彼女からマグカップを奪い取って、コーヒーに口をつけた。
口の中に含んだ瞬間、俺は一気にむせ込んだ。
不味い。不味すぎる。
コーヒーを何十倍にも凝縮した感じで、苦味しか感じない。苦いというレベルではない、むせ返り味覚が破壊される味だ。
こんな物を出されたら、俺ならキレる。嫌がらせレベルの不味さだ。
吉良がむせずに我慢して飲み込むことができた事が不思議なくらいだ。
「大丈夫ですか?」
吉良はいつの間にか俺の前に立っていて、水の入ったグラスを差し出してくれた。
俺はそれを受け取り、一気に水を飲み干す。
「…ごめん、濃すぎた」
たかが粉を入れてお湯を入れる程度なら、俺でも簡単に出来ると思っていたのに、吉良が淹れてくれた様にはいかない。
「…粉、どれくらい入れたんですか?」
「たぶん、お湯に対して三分の一ぐらい?」
吉良が不思議そうに聞くので配合を伝えたら、吉良は目を見開いた。口まであんぐりと開いた。
「このくらいのカップなら、ティースプーン一杯で、大丈夫ですよ?」
「そうなんだ。初めてだと、上手くいかないね」
「…でも、おかげで涙はしっかり止まりました。ありがとうございます」
ぎこちなく笑った相手は、不味いコーヒーを飲ませたことを咎めもせず、そうお礼を言って視線を伏せた。
別に、吉良の涙を止めるための意図的な行動でもなければ、ただの失敗なのだから、いっそ、厳しく咎められた方が居心地いい。
「淹れなおしてくるよ」
面はゆい気分になり立ち上がりかけたら、不意に弱い力で腕を引っ張られる。
横を向けば、吉良が俺の服の裾をそっと摘まんでいて、首を横に振る。
「いえ…もう帰ります。これ以上、ご迷惑は」
「…俺が帰すと思う?」
途端に吉良が俺から手を離して、困惑の表情を浮かべる。
その素早さに、思わず苦笑が出る。
「泣きはらして酷い顔をしているから、まだ帰らないほうが良いよ」
「…そんなに酷い顔してますか?」
「マスカラが落ちてパンダ目だし、目が腫れているから。直してくると良いよ」
「じゃ、じゃあ、洗面所をお借りします」
吉良は顔を触りながら慌てて立ち上がると、そのまま自分のバックを持って洗面所に駆けていく。
化粧崩れは事実だったけど、夜道を歩けないほど酷くはない。こういえば吉良が一人になれるきっかけが出来ると思っただけだ。
冷静さを取り戻した今、俺とこのまま顔を突き合わせるのは吉良としても気まずいだろうし、かといって、近所の人間に野次馬された吉良を直ぐに家に返すのも、気が咎めるから何か気がまぎれる時間潰しをしてもらった方が良い。
俺はその後姿を見送って、キッチンに移動する。
とりあえず苦いコーヒーは捨てて、吉良が買い置きをしてくれていたビニール袋を取り出して、製氷機の氷をそれに突っ込んで口を締めた。
それを持って洗面所にいくと、メイク落しのシートで顔を拭いていた。
「これで眼を冷やすといいよ。タオルは適当に出して使っていいから」
「あ…ありがとうございます」
戸惑う吉良に氷の入ったビニール袋を渡して、さっさとその場を離れる。
これでしばらくは、吉良一人でゆっくり出来るだろう。