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Parfum  作者: 響かほり
第十六章 揺れる心で
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「お前のことだ。あいつにベッドを貸して、お前は場の離れた床で寝たんだろ」

「ええ…そうだったんですけど…」

「…ですけど、何だ?」


 思い出して、夜明け前に受けた衝撃と恥ずかしさが込み上げてきて、顔が熱くなる。

 夜、確かに榊さんがベッドで眠ったのを確認してから、キッチンに敷いた布団で眠ったはずだったのに。

 目覚ましで眼が覚めたら、自分のベッドの上にいた。

 しかも、目の前に無駄に綺麗で整った外国人の顔があった。それが榊紫苑だと気付くのと、互いに向き合うような格好で、彼に抱きしめられた状態だと気付くまでにはしばらく時間を要した。

 自分を包み込む温もりに、人のそばで眠る心地好さを感じてまどろみからなかなか抜け出せずにいたから。

 その半面で、間近にある相手の寝顔を見てイケメンは何をしていてもイケメンだとか、睫毛が長いなぁとか、髭がやっぱり生えるんだとか、なんだか意外にがっちりしてるとか。

 驚くより何より、そんなわけの分からないことを考えながら、相手に手を伸ばして指で顔から頸、肩、胸にかけて触りながらいろいろ確認していた自分が、正気に戻った今はとても恥ずかしい。


『…誘ってるの?』


 不意に間近で聞こえた掠れた低音に、シャツ越しに指で胸板を確認して落としていた視線を上げれば、相手の二重の瞼が瞬いて、灰青色の双眸が眠たげに私を見ていた。

 だけどまだ自分の頭も眠っていて、どうして彼が目の前にいるのかを考えることも出来なければ、当然のように危機感も湧いてこなかった。


“無駄に良い声で、朝一からまた冗談を言ってる…”


 見当違いの事を思いながら、ぼんやりと何かがおかしい事に気づきはじめて、夜からの記憶を一生懸命にたどり始めた私に、やわらかく温かな感覚が落ちてくる。

 最初は額に軽く触れた彼の唇は、次に左の頬に降りてくる。


“…今、何されたの?”


 改めて相手を見れば、彼が榊紫苑であるとようやく頭が思い出す。


『さ、榊…さん?』

『そんなに見つめると、食べちゃうよ?』


 何の動揺もなく、低く甘い声でそうささやいて、淫靡な微笑を浮かべ相手に、ようやく脳が活性化する。

 絶叫したかったけど、キスされた衝撃と、どうして彼が一緒に寝ていたのか分からず、軽いパニックになって暴れ、榊紫苑に軽いグーパンチをお見舞いした。

 そのあと、私をベッドに運んだと自供した榊紫苑に、朝からお説教だった。

 だけど、榊紫苑は私のお説教なんてどこ吹く風で、しれっと「生身の抱き枕がないと眠れない」とか、「挨拶でこの程度のキスくらい普通にする」と、放言してくれました。

 私は抱き枕じゃありませんっ!とか、ここは日本だから過度のボディータッチはいりません!って、朝から雷を二つ三つ、榊紫苑に落として、律儀に朝ごはんをごちそうして家から彼を叩きだした。


「…あの人、やることなすこと喋ること、全部がエロ過ぎるんですっ!もう、容姿が良いだけ、存在そのものが犯罪ですっ!」


 朝一からエロフェロモン全開だった榊紫苑は、心臓に悪い。


「犯罪ねぇ…」


 呆れたように院長は呟いてカップを机の上に置くと、そのまま肘を机に乗せ頬杖をついて私を見る。

 睨むわけでもなく面白がるわけでもなく、ただじっと見据えられ、私は思わず視線から逃れるように俯いてしまう。

 真摯過ぎて、なんだか怖い。


「榊の人間が女を口説くのは、社交辞令。手を出したところで、ほとんどが遊び。それが分からないお前でもないだろ?」


 それは勿論、重々承知している。口説き文句は幾度も身を以って体験をしているし、それをあしらう処世術も身につけてきたつもり。


「それは理解していますし…私、これまで榊の先生方に社交辞令をされても、心臓が悪くなるような動悸に襲われることなかったんです」


 なのに、榊紫苑を前にすると、動悸が酷くて相手の言葉を受け流せない。


「だろうな。お前は口説いても絶対に落ちない榊潰しだと、仲間内で有名だったからな」


 始めて聞く事実に、まじまじと院長を見てしまった。

 院長は、「やはり気付いてなかったか」と、鼻で笑う。


「そんなお前を多少でも揺るがす男が、凱ではなく紫苑だとは思わなかったが」


 医者として尊敬している、かつて一緒に仕事をした人の名前に、私は曖昧に笑うことしか出来なかった。

 以前勤務していた病院で、私と凱先生が付き合っているという、根も葉もない噂が流れていたのは、私も知っている。職人気質で気難しい凱先生が直に指導をしてくれたナースの人数は私を含めて片手しかなかったし、特に目をかけてもらった自覚もある。だけど、男女の中にはなったことはない。

 私にとって、凱先生はお兄さんの様な先生の様な存在で、先生との間に人に話せないような出来事は何もない。凱先生だって、同じオペチームの仲間として見てくれていただけだから、噂をいちいち否定をすることさえなかった。

 だから私も、あえて否定も肯定もしなかった。否定すると絶対に余計疑われるし、ムキに否定すればするほど勝手に本当だと解釈されるから。余計な事を言って、凱先生に迷惑がかかっても困るし、噂はそのうちすぐに消えるものだと思っていた。

 なのに、噂だけが独り歩きして、凱先生が海外留学する前には先生と私が近々結婚すると言う噂にまで進展していた。

 本当に、噂って怖いわ。

 院長がその根も葉もない噂話を信じているとは思わないけれど、凱先生と院長は同い年で何かとライバル関係にあったから、気にはしているのかもしれない。


「榊さんの傍にいると、ずっと振り回されっぱなしで、なんだか怖いんです…きっと榊さんは…どの榊の人間よりも自分の魅力を理解していて、女性を魅了するのが上手なのかもしれません」


 男の人に対して鈍い鈍いといわれている私でさえ、否応なしに男としての魅力を感じてしまうほど。


「セクハラは酷いし、ゴーイング・マイ・ウェイだし、好きでもない女性にも無駄な色気を振り撒くし…」

「そんな男に、学習能力なく隙だらけで、馬鹿丁寧に相手をするお前も悪い。嫌なら、徹底的に男としての紫苑を突き放せ。俺はお前に女として接しろとは言っていない」


 ぐうの音も出ないようなことを言われ、私も返す言葉がない。

 嫌なのに、目の前で辛そうにする彼を見ると、必死に何かから抜け出そうとしているようで、放置できなくて。でも関わってしまえば、榊紫苑に翻弄されてしまう自分が居て。

 身構えても、彼は私では想像もつかないことをしてくるから、結局最後は彼のペースに嵌ってしまう。

 動揺しているときに「好き」だと言われると、例え社交辞令でも、早鐘のような心臓の音と、落ち着きのない自分の気持を、誤解してしまいそうになる。

 勘違いして、捨てた恋愛感情が燻るなんて許されない。

なのに、榊紫苑を前にすると自分の感情が掻き回されて、冷静ではいられなくなる。なのに、どこか自分に似ている榊紫苑を突き放す事が出来なくて…。


「自分でも、莫迦だなって思います……気持ちの切り替えだって全然出来ないんです」

「吉良」

「気分転換に散歩でもしてきます」


 じっとしていても、変なことを考えるだけだから、外の空気を吸って夕方診療前に気分を変えてきたほうが良い。

 そう思って立ち上がった瞬間、院長に腕を掴まれる。


「院長?なにか、ついでのお使いでも?」


 私を引き止める理由なんて、そんなものだと思っていたのに、院長は何も言わず私をじっと見据えているだけ。その視線が、怒って見えるのは気のせいではない。

 仕事にまで支障をきたしかねない私に、もっとしっかりしろと、叱咤したいのかもしれない。


「仕事に支障が出る前に、このまま帰れ。冷静な判断が出来るまで、しばらく出てくるな」


 院長の口から冷たく放たれたのは、叱られるよりも私の胸に深く突き刺さる言葉だった。




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