78
§
「…貴女、俺に喧嘩売っているの?」
「その言葉、そっくりそのまま貴方にお返しします」
深夜、玄関の前で仁王立ちをする吉良を前に、俺は彼女を見下ろすように睨み、互いに一歩も譲らぬ膠着状態にあった。
その時間、既に十分。
「時間の無駄だから、さっさと退いた方が良いんじゃないの?」
「そんなふらふらの状態では帰せません」
「強情な女は嫌われるよ」
「嫌いで結構です。病人は大人しく部屋に戻ってください」
吉良は扉を背に、眉間に深い皺を寄せて断固、動くことを拒否している。
吉良もかなり強情で、幾度と同じやり取りを繰り返しているのだが、首を縦に振ることも無ければ、俺に道を素直に譲るつもりもないらしい。
「もう平気だよ」
「平気な人間は、そんな青白い顔なんてしてません」
心配したパニック発作は、どうにか起こること無く落ち着いた。それでも、激しい動悸と呼吸苦にしばらく苛まれた体には、鉛のような気だるさが圧し掛かっていた。
正直、今の状態で動き回りたくなかったが、またちょっとしたきっかけで発作を起こすのではないか、と言う恐怖心のほうが強い。
吉良の口から健斗の話を聞きたくなかったし、心をかき乱すような余計な話を聞きたくなかった。
だからこそ帰りたいのに…。
「お願いですから、もう少し顔色が良くなるまで休んでいってください」
どうしてこのタイミングで、そんな台詞を言うのだろう、彼女は。
俺のことなんて嫌いなら、このまま素直に俺を帰せば彼女には何の苦労もなくて楽なはずだ。
看護師としての仕事の顔が、私生活でも抜けないのだろうか。そうだとしたら、今の俺には苦痛以外の何物でもない。
一歩前に進み出て、腕を吉良に向けて伸ばす。
彼女の顔の横にある鉄の扉に手をつき、ゆっくりと聞き分けのない彼女に顔を近づける。
反射的に身を反らそうとしたらしい吉良は、扉に背後を阻まれ、近付く俺の姿を、息をのんで見据える。
拳一つ分の距離で吉良を見下ろせば、彼女は明らかに警戒した表情で俺をじっと見上げて、息をのんだ。
「俺を引き止めるなんて…襲われる事を期待しているの?」
挑発的に低く囁けば、吉良の瞳が一瞬、大きな瞳が零れんばかりに大きくなって、表情が固まった。
次の瞬間には吉良の顔が真っ赤に変り、大きく首を横に振る。
「き、ききき期待なんて、あ、あああ有り得ません!」
動揺でどもった上に、声が上ずった吉良は、背後に動けたら面白いほどの勢いで後ずさったかも知れない。
初めから、吉良にその気がないのは分かりきったこと。
彼女の口から、「帰れ」と一言を出させる為の台詞に過ぎない。
その策略はある種成功しているようだが、吉良の反応はこれまで俺が付き合ってきた女たちとは違い、素直と言うか初心過ぎる。
あの程度の台詞でこれほど動揺するということは、あまり男経験がないのかもしれない。
“…ふーん。この状況でこの反応ねぇ…だとすると、健人とはまだやってないって感じか”
自分の心をかき乱す吉良に、出来れば関わりたくない今ですら、そんなことを冷静に判断している自分がいる。
それに気気付いて、思わず失笑が浮かぶ。
もう、『女』を見せた吉良のことになど興味を失ってもいいはずなのに、彼女への興味が褪せない。
それどころか、身を縮めて俯いている吉良を、更に困らせたい衝動に駆られ、より彼女に密着するように近付いてみる。
「い、今のままで、車を運転したら事故を起こしますからっ…だ、だから…っ、か、顔が…ち、近いです」
「吉良の顔が、よく見たいんだけど?」
「ど、何処にでもゴロゴロしてるような、とってつけたような顔ですっ。地味以外の何者でもないですからっ」
瞳をきつく閉じて、顔をそむけて必死に説明する吉良は、いちいち可愛くて。こういうところを見ると、自分より年上にはどうしても見えない。
「…可愛いよ、吉良は」
「か、可愛くないですっ!」
「ねえ、俺を見てよ?」
「む、無理ですっ」
「…それなら俺の事、これから紫苑って呼んで?そしたら、もう少しだけ大人しく休んであげる」
初対面の亮を名前で気安く呼ぶくせに、二年も前から知っている俺の事を苗字で呼び続けるなんて納得がいかない。
「な、なんで上から目線?」
朱に染まった顔を少しだけ上げて、俺を見上げてくる吉良のダークブラウンの瞳が、俺に答えを求める。
「どうしてだと思う?」
仕事時の隙があるようで隙のない、軽く俺をあしらう彼女より、惑わされて素の態度になった今の吉良の表情のほうが好きだ。
俺だけを見て、俺を考えて、俺だけのために表情を変えるから。
このままずっと、俺のことで吉良が手一杯になれば良いのに。
そうすれば、彼女は俺を見てくれる…健斗の存在さえ忘れて。
“…ちょっと待て。それってどういうことだ?”
芽生えた欲求に、俺は自問自答する。
自分の中にある、吉良への思いは一体何だ?
『お前、その女に惚れてるんだよ。一〇〇%』
突然、頭の中に亮の言葉が蘇る。
一度は強く否定したその言葉に、今は心が揺らぐ。
女に惚れたことなどない。どういう感覚なのかも分からない。
一時の関係になっても良いか、否か。面倒くさくない遊びの為だけの都合の良い女、それが俺の女に対する「好き」基準だ。亮や世間一般の人の言う恋愛感情は、一度も持ち合わせた事がない。
母の様な身勝手に子供を産んで、おもちゃの様に自分の都合の良い様に遊び、男の為に平気で子供を捨てる傲慢さがずっと、嫌いだった。
全ての女が母の様であるとは思わないけれど、程度の差こそあれ、似たようなものだと思っている。だから、俺には女への偏見と不信感、ある種の蔑みの様な感情しかない。