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「まさかの名字呼び!」
「吉良に風穴を開けるつもりか、お前は」
見兼ねたのか、相手の首根っこを掴んだ院長は、強制的に相手の視線を私から逸らした。
「やだなぁ、見るのも駄目?兄貴ってばケチじゃね?」
「お前こそ売れっ子の癖に何故、此処にいる」
「え~、そりゃ決まってんじゃん。伊織と兄貴を虜にした魔性の女に会いに!」
私が知っている人の中で、伊織と言えば、顔と名前の繋がらない芸能人の上坂伊織だけ。
刹那、院長が相手の男の両顎を猛禽類の様に鷲掴みにする。
「がっ!???」
強制的に口をふさがれた相手は、じたばたともがいている。
意味の良く分からない事を言う相手の言葉を頭の中で反芻していたら、過激すぎる院長の攻撃を止める事が出来なかった。
「その名で呼んでんじゃねぇぞ、莫迦かお前。それから、吉良は見せもんじゃねぇぞ」
人でも殺してしまいそうな眼光で、ドスを利かせた院長の言葉に、相手がたじろぐ。
“…見慣れていても怖いわ、この院長…本当に、男の人には特に容赦がないんだから…”
普通の人は、この院長の眼光と威圧感に、普通は怯えるもの。
この姿に、歴代の私の彼氏は尻ごみして逃げていったっけ…と、なんだかしょっぱい思い出がリフレインして来る。
でも、視線の先で、必死にもがいている相手がそろそろ顎を砕かれてしまいそうなので、止めないと。
「院長、そろそろ止めないと、その人が返事をする為の顎が無くなっちゃいますよ?」
「…お前、Mを装った本性ドSだろ」
「どうあっても、私をドSの仲間にしたいんですか?」
「初めからお前は、ドSだ。いい加減自覚しろ」
呆れた様に私を見た院長は、もがいている金髪の男の人を解放する。
自由になった金髪男子は、顎をさすりながら、院長を軽く睨む。
「ってぇ…なんちゅう握力だ…俺は、伊織って名前しか知らねぇっての」
「院長、伊織って誰ですか?」
「あぁ?紫苑の芸名だ」
「…芸名?あぁ、伊織って榊さんの源氏名のことですか」
職業がホストなら、源氏名をつけるだろうし、さしておかしくも無い。
「げ、源氏名!?」
驚いたような声を上げた相手を、院長が一瞥すると、彼は慌てて口を押さえて首を何度も横に振った。
「もしかして榊さんのお仕事仲間ですか?」
「うん…そうそう。時々、一緒に仕事してるんだわ。俺はその『サカキサン』のダチで、神埼亮って言うんだ…よろしく」
不機嫌MAXの院長の睨みにやや怯え気味で、神埼亮と金髪青年は自己紹介をしてきた。
怯えるのとは別に、少し、返答に困っている様でもあったけど…。
「榊さんのお友達がどうしてこちらに?もしかして診療ですか?」
「俺どこか悪いように見える?」
逆に聞かれて、私は首を横に振る。
少なくとも、うちのクリニックの適用者ではなさそう。院長の攻撃に対して堪えていない彼は、恐らくメンタル系はかなり強い。
心を病んだり、不眠症に陥っているとは到底、思えない。
どうして此処に来たのかしら…。
「主に、頭が悪い」
しれっと、院長が大変失礼なことを言う。
「院長、重ね重ね失礼です!」
「あははははっ。俺、否定できねー。頭だけはホント悪いんだわ~。どうにかなんねぇかなぁ?」
不愉快になった様子もなく、神埼亮と名乗った相手は笑っている。
懐が大きいというか、鷹揚というか…院長相手に何の動揺も出ないその強靭な神経は、素晴らしいものがあると思う。
「無理だ。諦めろ」
「あはははは。何気に、ひでぇ~」
「…それで、お前はあいつに言われて、俺達の様子でも探りに来たのか?」
「まさか~。伊織がそんな可愛い性格してる訳ないじゃん。単に、俺の個人的趣味♪」
院長の嫌味が全く通じない相手に、院長の方が折れた。
個人的趣味が何なのかよくわからないけれど、榊さんの友達を名乗った亮と言う人は、とても変わっているのだけは良く分かる。
「しかし、伊織が手を出すにしては、地味な女だなぁ」
じろじろと私を見た相手は、感慨深そうに慇懃無礼な言葉を呟いてくれた。
地味…確かに院長や榊紫苑に比べたら、地味過ぎて困るくらいの容姿だけど。
顔の良い人に、面と向かってはっきり言われると、流石にショックだったりする。
「ええ、職場内でも断トツで地味な女、地味子です。せっかくなんでジミーって読んで下さいね」
やけっぱちにそう笑顔で自己紹介すると、亮と言う人は噴き出すように笑う。
「ジミーって…そう言うノリ、嫌いじゃねぇわ。あんた、良いモン持ってるね!気に入った。あ、俺の事はリョンリョンて呼んでくれっ」
「…りょ…りょんりょん?」
「おぉ!なんだ、ジミー」
どうやら私、亮改めリョンリョンにジミーとして名前が定着されたようです…。
「…莫迦だ」
ぼそりと院長が呟いて、頭を押さえながら深いため息を漏らした。