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§
時刻は既に十時を超えていた。
行くべきかを迷いながら、俺はそこに足を運んでいた。
住宅街にある、若い女性向きの小洒落た外観の一人暮らし用の小さなアパート。
その二階の二部屋並んだうちの、二〇一号のインタホンを押す。
「どなたですか?」
しばらく間があってから、眠たげにそう尋ねる声が部屋から聞こえる。
「俺だ」
「…院長!?」
慌てて鍵を開ける音がして、扉が少し開く。
チェーンをつけたまま、細い隙間から吉良が覗く。
知合いであっても、夜間の来訪は容易にチェーンを外すなと教えたことは、きちんと守っているようだ。
「院長、ホントに家庭訪問に来たんですか!?」
声を押えてはいるが、吉良は驚きを隠せない様子で俺に訊ねてくる。
そう言えば、昼中にそんな話をしていた事を思い出す。
普段なら、それに便乗した言葉をかけるが、そんな気分でもなかった。
「…院長?」
吉良は何も答えない俺に首をかしげ、一度扉を閉じた。そして、チェーンを外す音が聞こえ再び玄関の扉が開く。
「難しいお話みたいですから、とりあえず上がってください」
大きく開いた扉の先で、吉良がTシャツにハーフパンツと言う色気のないスポーティーな格好で俺を出迎えた。
俺は促されるまま、部屋の中に通される。
1DKの狭い部屋。もっとも、一般的な一人暮らしには十分すぎる広さだが、俺の感覚からすれば窮屈極まりない。
初めて見る吉良の部屋は女性らしい装飾で内部は整理整頓され、紫苑が贈った花束があちらこちらに分散して飾られている以外は、倹約家の彼女そのままに質素だ。
しかし、質素とはいえ、あれほど芸能関係の人物も把握しておけと言っているにもかかわらず、テレビがないとはどう言う事だ。こいつは。
「…干物ではないな」
「だから、干物女じゃありませんってば」
吉良は苦笑しながら、ダイニングにある小さなテーブルの前に俺を案内して、腰掛けに座るよう促す。
男には些か小さなその腰掛けに、俺は胡坐をかいて座る。
「お前、まだテレビを置いてないのか?」
びくりと吉良の肩が揺れる。
「いや…家電屋さんに行くんですけど、商品も多いし、機能が多すぎてどれがいいのか全然分からなくて…」
「店員にお勧めを聞け」
「お勧めも毎回、聞きますよ?製品ごとに詳しく説明してもらったんですけど、細かい違いが多くて頭の中で整理しきれなくて、結局買わずにいつも帰ってきちゃうんです…」
苦笑いしながら、ため息を漏らして吉良はうなだれる。
自分が納得をしないものは買わない、金をかけないというスタンスの吉良らしい返答だが、このままでは一生、テレビも買わなさそうだ。
「お前、今度の休み、俺と一緒に家電屋へ行きたいらしいな?」
「だ、ダメです!院長、七十インチ以上とか始末に負えない大きいの選ぶんですもん」
「お前の家が小さいんだろうが」
「院長が規格外の大きな家に住んでいるだけですから…それに、絢子さんの新しい彼氏さんが家電屋さんに勤めているので、近いうちに、その人に聞くことになっているので大丈夫です」
「あいつ、また男が変わったのか」
「今度の人は、まちゃも懐いてるみたいですよ?」
受付嬢の絢子は中学生の息子がいるが、吉良とは真逆の恋多き女だ。そのせいか、息子がいやに大人びて母親に男問題をたしなめていたな…。
「最近、他の面子に変わったことは?」
「特にシフトに問題が出そうなことはないですよ」
吉良は師長という立場上、隔たりのある仲間付き合いはしないが、各スタッフの私的な問題もしっかり把握している。
“いかんな。つい、仕事の話になる…”
二人きりだと、つい職場の休憩時の様な感覚で仕事の話が出てしまうのは、日ごろの癖の様なものだ。これまで、意図的にそういう話題を多くしてきた。