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「俺の女に手を出すほど、女に不自由してねぇだろ。さっさと諦めたらどうだ」
紫苑は険しい顔をして見せたが、不意に声を押し殺し、喉で笑う。
「お前の女でもないだろ。ただの雇用関係しかない癖に」
「…お前には、俺と吉良の過ごした歳月の重みなど解らないだろ」
わざと相手が誤解するような言葉で、相手を牽制してやる。
実際、こいつには俺たちのつながりの深さなどわかりはしない。表層的な雇用関係だけではないのだから。
俺や美菜に対して、吉良はどん底にいるときに支えてくれたと恩義を感じているが、実の所、俺達の方が吉良に返しようのない恩を受けている。
吉良の存在がなければ、美菜が子供を産めない絶望から立ち直る事も、俺と美菜が夫婦になることも無かった。今のクリニックを立ち上げて、俺が榊から精神科医としてそれなりに認められることも無かった。
だからこそ、俺と美奈は吉良に手をかけずにはいられない。
紫苑は表情を変えなかったが、その双眸には突き刺さるような敵視が混じっていた。
「なんで俺をそんなに牽制する訳?美菜様を愛しているとか言いながら、マジで吉良に惚れている訳?」
挑発的な言葉に、俺の顔から表情が途絶えた。
他人の目があるとはいえ、明らかに紫苑の言葉には見えない棘がある。
紫苑は、『愛』という情念を一切、信じていない。
両親から愛情を殆ど与えられなかった紫苑は、愛情がなんであるかを知らずに育ち、体だけの関係で女と交わる。
軽薄な男女関係の中で、安易に口から吐き出されるその言葉ほど、不実で虚偽を孕んだ物はない。
女遊びが激しい榊一族の多くの男は、『愛している』という言葉を、恋愛を彩る飾りの様に用いる。
そこに己の情はない。ただ、相手をその気にさせて煽る為だけの道具としての言葉でしかない。
だからこそ紫苑の奴は、人が愛を口にすることを滑稽だと思っている。
歪んだままの紫苑に、だれも愛を説くことなど出来ない。
俺ですら、美菜と出逢って何年もの歳月を共に重ねてその意味を知った。
言葉で簡単に説明のできるものではないのだ。
「そんなに吉良が俺に盗られて困るなら、お前こそさっさと正式な愛人にでもしたら?」
「ちょ、伊織。おま、そんな事言っていいのかっ!?どう考えても、お前は吉良って女に惚れてるだろうが」
当人でもないのに、動揺した様に神埼亮が口を挟む。
どうやら頭は悪そうだが、この男の目は節穴ではないようだ。
「…ほぉ?」
「冗談じゃない。女に惚れてたまるか。そんな日が来たら、この世の終わりだ」
苦々しく紫苑はその言葉を吐き出した。
露骨な嫌悪感の滲んだその声に、神埼と熊井が困惑気味に顔を見合わせる。
この分だと、紫苑の奴は既に自身が吉良に惚れているという自覚さえもないだろう。
周囲が理解できていると言うのに…いや、気付く事から意図的に逃げているのだろう。
だが、教えてやる真似などしてやらない。
吉良の事に関しては、紫苑の治療や感情などよりも最優先事項になる。
「…そうか、ならば結構だ」
俺はソファから立ち上がる。
「何が結構なんだ?」
「そろそろ、吉良には俺の子供を孕んでもらわねば困るからな。お前に邪魔をされたくなかっただけだ」
「「孕む!?」」
神埼と熊井が、見事にハモった。
紫苑の眉間に深いしわが刻まれた。
「お前、本気で吉良を…子供を産むための道具にするつもりか?」
侮蔑のこもった言葉に、俺は鼻で笑う。
「俺の愛人になると言うことは、そう言う意味だ」
「ふざけんなよ、お前」
「何がだ」
「吉良は道具じゃない。しかもお前にも惚れてない」
「それがどうした。感情云々と吉良が言うのなら、惚れさせれば済む話だ」
「なっ」
「その気もないお前がとやかく口を挟むな」
「そう言う問題と違うだろ」
「違わないだろ。お前が煽ったんだろうが、吉良を愛人にしろと」
返事に窮したのか、紫苑は怒り混じりに舌打ちをし、俺を睨む。
珍しく本気で怒っているのが分かるが、そんなものをいちいち相手にするつもりはない。
「…あの~、取り込み中、すんませ~ん」
そろそろと手を上げ、遠慮がちに主張した神埼亮に、俺は再び視線を向ける。
「何だ」
「…複雑な話してるから、俺ら、席はずそうか?」
「必要ない」
俺はそのまま玄関へと歩き出す。
「あ、ちょっと兄貴!伊織の診察してねぇけど」
「莫迦につける薬はない」
「健斗っ!」
「ちょ、伊織!止めろっ!」
振り返れば、俺に殴りかかろうと動き出した紫苑を、男二人が羽交い絞めにして止める。
野郎二人の腕の中で暴れる紫苑の表情は、女を取られて激高する男のそれと一分も変わらない。
無自覚のままに垂れ流しにされる、嫉妬と我が侭だけは一人前か。
こいつがこんな表情を見せるなんて意外だと思うと同時に、不意に失笑が漏れる。
“らしくもない真似をした…”
紫苑の心を揺さぶるような女が現れ、紫苑の女に対する考え方が変わるなら、その相手はおそらく吉良だろうと思ってはいた。
だが、己の感情を自覚すら出来ない意固地なお子様に、吉良が振り回されて傷つけられるのはどうにも我慢が出来ない。
“お前になら…とも思ったが、やっぱり無理だ。今のお前に吉良は渡さねぇよ”
美菜の時ですら感じた事のない強い独占欲に、俺の中で燻っていた感情がゆっくりと目を覚まし始めていた。