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Parfum  作者: 響かほり
第十一章 存在の証明
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 何時しか『上坂伊織』である事さえ苦しくなっていた。

 それは、『上坂伊織』の人生が公私の区別なく、自分を作り続ける生き方だったからだ。

 捨てて切り離したはずの『榊紫苑』の窮屈な生き方そのものが、『上坂伊織』としての俺にも常に纏わりついていた。

 気付いてしまってから、その先は地獄。

 逃げた籠の先は、更に大きな籠の中。それも、昔の様に逃げ場はない。

 普段の生活にも制限が付き、人目に触れる所では『上坂伊織』を演じ、途切れない緊張が苦しくて、辛くて、息の仕方さえ分からなくなる。

 一人になればその孤独が、母親に捨てられ敵意むき出しの見知らぬ『家族』の中に投げ込まれた頃を思い出させる。

 肉体的な暴力も、精神的な暴力もただ黙って耐えるだけの日々。いつ何をされるか分からず、夜さえ満足に眠る事が出来ない。

 俺に興味を示さず無視をするか、悪戯に俺を貶める敵意を持つかどちらかにしか属さない人間達の中で何年も過ごして、気付けば人間が信用できなくなった。

 だから何時も誰かが傍にいなければ、それを思い出して不安になる。

 けれど同時に、傍に寄せることは恐怖だった。

 利害の一致した仲間とつるんで夜を明かし、その場限りで後腐れの無い女を抱いて、心の中に巣食う不安と孤独をやり過ごした。

 親切な顔をして近付いて俺を貶めた義兄のような人間は要らない。俺に真っ当な情を傾ける様な人間も居るはずがなかった。

 下半身の緩い女でも、『上坂伊織』と言う名前に付いた付加価値との利害関係を望む奴でも良い。露骨な慾を晒しても、俺に深く関わらない、薄っぺらい関係を望んでくる奴の方が幾分増しで、付き合いやすかった。

 人が居れば気が紛れる。確かに楽だが同時にそれは、『上坂伊織』の仮面が外せない。

 時折、一人で眠れば毎回のように子供の頃の夢を見る。

 孤独に不安を煽られ、浅く短い眠りから覚める。

眠りたくないと願ったのは何時からだろう。

 不安と恐怖の綱渡りで、誇りとかそんな感情を抱いて仕事に向き合ったことはない。

 仕事に追われることで、逃げ続けているだけ。

そんな脆く弱い自分を見せるのが嫌で、誤魔化して隠し続けているだけなんだ。


“誇りなんて、何処にもない…逃げて、逃げて、更に追い込まれているだけだ”


 どうして吉良は俺の弱さを簡単に見破って、心を揺さぶるのだろうか。

 


「…大して俺の事を知らないのに、俺の事見透かしたつもり?」

「見透かせる訳ないじゃないですか。何となく、今の貴方は昔の私に似ている気がしただけです」


 露骨に不快感を露わにした俺に、吉良は首を竦めて苦笑する。


「俺と貴女が?」

「何となく、そんな気がするだけですよ…私、院長の許で働く前、公私で煮詰まってどうにもならない時期があったんです」

「…貴女が?何でもそつなくこなせるのに?」

「……私が器用なら、どうにかなったんでしょうけどね」


 吉良はただ、困ったように笑う。


「誰にも弱い所を見せたくなくて、自分の心に嘘ついて…無理に笑って仕事をして苦しい気持ちから逃げていたら、不眠症になった挙句に院長たちに迷惑をかけて…」

「…何があったの?」

「睡眠薬の飲み過ぎ(オーバードーズ)で、危うく死にかけちゃったんですよ」


 俺が尋ねた意味とは別の答えを、吉良は冗談にもならない言葉で告げる。

 意図的に話の内容を避けられたのか、別解釈で捉えたのか判然としない。

 だがそれ以上に、あまりに飄々とした様子で吉良が危うい事を言うので、俺は言葉に詰まった。


「深く長くずっと眠っていたかったんですよね…だけど、薬は増えるのに全然効かなくて。眠りたくて、現実から逃げたくて、処方された薬を一気飲みしちゃったんです」


 吉良の言うことは、少しわかる。

 安定剤も睡眠薬も服用期間が長くなれば効かなくなり、次第に薬は強くなり、量も増える。

 健斗に診察を受ける前までは、別の精神科の医者に過剰に薬を与えられ、その用量でも効かずに、それ以上の量の薬を多飲した。

 目は冴えたままなのに頭は朦朧として、まるで夢を見ている様に現実の中を生きていた。

 薬が効かない癖に、服用しないと禁断症状みたいな変な症状に悩まされて、必要のない薬を飲む無限ループ。

 日常生活に支障が出るほどの依存状態だった俺を、健斗が薬抜きをして依存状態からは脱出させてくれた。

 それからずっと健斗に治療を任せて、薬の量は驚くほど減った。

 健斗曰く、『効きもしない薬を飲むほど莫迦莫迦しい事はない。いっそ飲まずにいた方が体に良い』のだとか。

 でも時々、今でもどうしても眠りたくなって睡眠薬と安定剤を大量に飲む時がある。

 結局、大して眠ることも出来ずに迎えた翌朝は、薬の副作用で気分は最悪。何時も後悔する羽目になる。

 眠れない焦燥と苛立ちで、処方以上の量の薬を一階に飲む。知らず知らず薬に依存してやってしまいがちなその行為は、一歩間違えれば死ぬ。

 薬が強ければ強い程、そのリスクが高くなる事を健斗は俺に教えてくれていた。

 薬剤の過剰服用の危険性を当然熟知しているであろう、看護師の吉良がやったなんて。

 しかも、彼女は健斗のお気に入りだ。そんな危ない看護師を従兄弟が傍に置くのか?


「そうしたら丸二日も昏睡状態だったみたいで…目が覚めたら病院で、美菜先生は号泣しているし、院長は激怒していてもう大変」


 何が面白いのか、吉良は笑顔でそう話す。それは、自嘲の様でもあった。

 一歩間違えれば、死んでいたのだ。


「いや、笑い事じゃないでしょ。それ」

「そう、笑い事じゃ済まないんです」


 急に真顔になった吉良に、俺は息をのむ。


「誰にも頼らず、仕事に逃げて。榊さんの不眠症はどんどん悪化してる…何時か貴方は私と同じことをしそうな気がするんです」

「別に俺がどうなろうと、貴女には関係がないと思うけど」

「私はもう二度と、美菜先生と院長にあんな顔をさせたくないんです」

「だから、どうにかしたいって?美菜様や健斗の為に」


 俺の言葉に素直に頷いて見せた吉良に、どろりとした嫌な感情が心の中を這いずる。

 吉良の行動は、美菜様と健斗を主体になされている。

 吉良のダークブラウンの双眸に俺は映っているのに、彼女の瞳は俺を通した先の別のものを見続けている。

 俺が此処にいるのに。




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