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医者になれば権力闘争どころか、身の潰し合い。
医者にならなければ、榊のヒエラルキーでは最下層になる。
同じ医者でも、専門する科が『外科』に属さないだけでも、冷やかな目で見られると言うのに…。
そう考えれば、辛い選択だったと思う。
「家にも居たくなかったし、あいつらとは関係の無い所で早く自立したかったんだ」
「何時から働いているんですか?」
「本格的に働き出したのは、高校卒業と同時かな。家もその時に出たんだ」
そう告げた榊紫苑の表情は、後悔など一抹もなかった。
むしろ清々しさを感じる笑みを浮かべていた。
「一応、榊を名乗ることは許されているけど、今も本家から末端の分家筋にまで、俺の存在は無い物として扱うように命令が飛んでいるから」
「本家から?」
「榊で医療系や官僚系の職業に従事しないのは俺だけだから。前代未聞の異分子を、徹底的に排除して晒しものにしたいんだよ。次の同胞が出ないように」
医者家業、殊に外科医至上主義の榊一族の統率を保つため…と、言うことなのだろうか。
ある意味、閉塞的な世界観を持つ榊家なら、あり得るのかもしれない。
院長でさえ、精神科医として今の病院を起こす時に、かなり一族の人たちから嫌がらせやら、揶揄と侮蔑を受けていたし。
「俺としては、あいつらと縁が切れて清々しているし、生活には不自由もしていないからこんな幸せなことはないんだけどね」
「…え?」
思わず疑問の声が出た。彼の言葉に、大きな謎が。
「えっと…何?」
「じゃあ、此処のお家賃は?」
「俺の給料で賄っているけど?」
「…立地とか、部屋の無駄な広さを考えたら、どう見積もっても月百万円近いですよね?」
そう。榊紫苑が住んでいるのは高級住宅街で、しかも一人暮らしには無駄なだだっ広さの四LDK。
外観も、内装も安物分譲物件とはわけが違うし、マンション内のセキュリティーもハイクラス。
「家賃、そのくらいの金額だったかな?…まあ、大したことないよ?稼ぎは良い方だから」
私の住んでいるアパートなんて、このマンションのリビングより狭いのに。
この広さなら、大家族だって住めるじゃないの。それを一人で済むだなんて。しかも、金額の桁が違うのよ?
「お金の無駄遣いよーっ!!!」
心の底から、私はそう叫んだ。
部屋の広さも、家賃も、もっと有意義に使うべきなのに。
「…え?無駄遣い?」
榊紫苑は怪訝そうにそう私に尋ね、私は大きく頷いた。
「百万円ですよ??庶民がそんな大金手にしたら、浮かれて踊っちゃうんですよ!私の給料、何カ月分だと思ってるんですかっ!」
何とも困った顔をして私を見ていた榊紫苑は、突然、笑い出した。
しかも遠慮も無く、お腹を抱えて笑っている。
「き…吉良、さいこぉ…」
挙句には、笑い過ぎて呼吸が出来なくなって、涙目になりながらもまだ笑い続けている。
いわゆる大爆笑。イケメンが台無しなくらいもがいて笑っている。
何が彼のツボにはまったのか分からないけれど、彼は笑いから抜け出すのに五分を要した。
「…満足しましたか?」
「あぁ、うん」
目元の涙を手で拭いながら、榊紫苑はようやく姿勢を正して私を見た。
「何が面白かったんですか?」
「いや、浮かれて踊る吉良を想像しちゃったよ」
何であえて私で踊る所を想像してくれたのだろう、この美青年。
私が生活感あふれる庶民だから?それとも、滲みでる貧乏症のせい!?
「……すみませんね、庶民飛び越えた貧民で」
努めて愛想笑いで答えてみたけれど、榊紫苑がまた噴き出した。
「…今度は、何のツボにはまったんですか?」
「吉良って、もっと真面目一辺倒な人だと思っていたけど、発想が意外にお茶目だよね」
「…はぁ」
お茶目?
何処がどのように?
あえて、自虐的な嫌みで応戦したはずなのに、榊紫苑は、どうしてそう言う解釈にたどりついたんだろう。
「貴女と話していると、なんだか楽でいいや」
「楽?」
楽しいではなく、楽ってどういう意味なのだろう。
首を傾げた私に、榊紫苑は笑いながら頷く。
「普段の様に考えて笑わなくても良いし、俺とは色恋沙汰にならなさそうだから、肩の力が抜けると言うか…」
その割に手を出してきたのは誰?って、言いそうになったけれど、言ったら変な地雷を踏みそうなので踏みとどまる。
単に、手を出してもあしらうって分かっていてちょっかいを掛けているだけなのだろうから、これは、あえて無視すればいい。
問題は。「考えて笑う」と言う答え。異様過ぎる。
仕事で意図的にそうしていても、日常ではそこまでしない。
彼の言葉は恒常的に多様な場面で、そうして生きていると言う証明だ。
「もしかして榊さん、いつも心で感じる前に頭で考えて反応しています?」
「言われたらそうかもしれないけど…それがどうかした?」
「…榊さん、今ものすごく生き辛いんじゃないですか?」
「どうして?」
「やせ我慢も大事ですけど、ちゃんと弱音を吐く場所を作らないと、気持ちがパンクして心が壊れちゃいますよ?」
自分でも気付いていなかったのか、自覚していたことを指摘された為か、榊紫苑の表情が露骨に変わっていった。