46 ~吉良side~
第十章 謎は多過ぎると胡散臭い
「おい、吉良」
シーツの張り替えをしている最中、院長が寝室の入り口に姿を見せた。
手を止めて姿勢を正して院長に視線を向ければ、複雑な顔をして部屋の中に入ってきた。
「今から美菜を迎えに行く。今回の紫苑の行動で、美菜の親父さんがかなり機嫌悪いからそいつも宥めて来る」
美菜先生のお父様は、美菜先生を溺愛しているし、美容業界の首領で榊一族に負けないくらい、各方面に力を発揮できる人。
だから娘が怪我をした上、入院と言う事だけでもかなりの問題。なのに、怪我を負わせた側が院長の従兄弟で、その院長が美菜先生に一晩付き添わなかった事も、きっと機嫌を損ねたのだろう。
いくら美菜先生が榊紫苑を看てと追い立てようとも、完全看護で付き添いが要らないと病院側が言っても、我が娘命の美菜先生のお父様には、その辺の事情は通じない。
「…大丈夫ですか?」
「こっちは、どうにかする。夕方までには戻るが、それまでは此処であいつの世話を頼む」
「もしかして、それまで二人っきりでいろと…?」
事情は分かるけれど、そうなると心許なくなってしまう。
「変な真似したら、殴るなり縛り上げるなり好きにしろ…そんな顔をするな。多分、手は出さねぇよ」
「すいません、信用が置けません」
「お前が診療に立ち会わないのは、あいつにとって死活問題だ。お前が心配するなら、あいつをベッドに縛り付けておいてやるが?」
流石に其処まではと、私は思わず首を大きく横に振った。
§
“…とは言ってもなぁ”
洗い終わったシーツを干しながら、院長が言い残した言葉を思い出していた。
院長に何と言われようと、榊紫苑に対しての私の印象は最悪だし、度重なる前科のある男を相手に信用なんて出来ない。
今回は、美菜先生の事があって院長が榊紫苑に手をかけられないから引き受けたけど、出来れば榊紫苑関係の仕事は今後、遠慮したい。
高時給でおいしい仕事で、老後の貯蓄稼ぎにはぴったりだったんだけど、貞操まで売り渡すつもりはないから。残念だけど、これっきり。
院長にも、戻ってきたらはっきりそう言おう。
そう決意を新たにし、とりあえずベッドに戻って大人しく寝ている榊紫苑と、極力接触しないように注意して行動しよう。
「…吉良」
呼ばれて慌てて振り返れば、ベランダの出入り口にベッドへ戻ったはずの榊紫苑が居る。
決意した先から、どうして彼からやって来るのかしら…。
「な、なんで起きているんですか」
「Crème Ranverser 作って」
「クレーム・ラン…ヴぇるせ?」
流暢なフランス語の名前に、私は首をかしげる。
英語どころかフランス語もいけるらしい相手が放った名前に、馴染みがない。初めて聞くけれど、『クレーム』と付くからには、洋菓子の名前なのかしら。
「あぁ、ごめん。Puddingのこと」
「…まだ、食べるつもりですか」
「明日食べるから、作っておいて」
内心でほっとする。昼も食べると言いだしたら、どうしようかと思った。
これ以上のプリン摂取は、いくらなんでも食べ過ぎだもの。
「わかりました。お昼ごはんの後に作ります」
「お願い」
そう言って、榊紫苑は満足そうに笑って部屋の中へ戻っていき、私は残った洗濯物を干しにかかる。
あの嬉しそうな笑顔だけを見ていると、子供みたいでとても無害そうな人に見えるけど、中身がたいへん危険であることを知っているので、絆されたりしない。
それから掃除をしたり、昼ご飯の下準備に取りかかってみたりしたのだけれど…。
「…あの…どうしてそこにいるんでしょう?」
榊紫苑は寝室には戻らず、掛け布団だけ持ってリビングのソファに寝そべりながら、じっと私の行動を監視するように見ていた。
家主のまとわりつく視線に耐えかねて、私は声をかける。
「気になるから」
「心配しなくても、貴方の許可なしに家の物は触りませんよ」
「ただ、吉良を見ていたいだけ」
色気を含んだ微笑でそう言われ、ぞわっと自分の背筋を這い上がった寒気を堪え、私は愛想笑いを浮かべる。
「…こんな凡庸な容姿をした年上の女を見て、楽しいですか?」
「貴女を見ていれば、何か分かるかと思って」
ソファの上で胡坐をかき、背もたれにもたれかかりながら、この家の主は難しそうな顔をして神妙に答える。
この男の思考パターンだけは、どうしても読み取ることが出来なくて、行動も予測不能。
下手をすると、院長よりも浮世離れした思考の持ち主なのかもしれない。
いや、院長はすることはトリッキーでセクハラ発言も良くするけれど、意外に常識的で守るべき一線はちゃんと守っている。
話をしながら、私は包丁を動かして料理に使う材料をカットする。
「…何かって、何ですか?」
「貴女を抱きたい衝動に駆られる理由」
「っつ!」
良いのは顔だけの男が放ったセクハラな一言に、思わず包丁を持った手がぶれた。
かつら剥きをしていた大根の皮を突き破り、包丁が私の指をかすめる。
親指の腹に縦に赤い線が入り、血が滲んだ。
思わず包丁と大根をまな板の上に置き、左手の親指を押さえて顔の前まで持ち上げる。
「な、何て事を言うんですか、貴方は!」
リビングにいる相手を睨みつければ、既にそこに相手はいない。
“え?居ない…って、近っ!”
気付いた時には、榊紫苑は大股で私の傍まで近付いていた。
警戒して身を引くよりも早く、彼が素早い動きで私の左手を掴んで更に私の腕を持ち上げ、自分の顔の前に私の手を持っていく。
榊紫苑は、じわじわと血が滲む傷を見て眉根を寄せて目を細める。
「女性が傷なんて作ったら駄目だよ」