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休んでいろと言われたけれど、結局俺は吉良の言う事を聞かなかった。
点滴をしたまま一人で居るのが、たまらなく居心地が悪くて怖かったからだ。
俺は五分もしないうちに、点滴を吊り下げた帽子掛けを持って廊下に出る。
十二時間以上を睡眠に費やすと言う、普段ではあり得ない状況のせいか、体中の関節と筋肉が異常に痛い上に体がだるかった。
普段感じない疲労感が、どっと押し寄せたようだった。
“でも、こんなに眠ったの初めてかも”
疲労に追い詰められるように眠っても、二、三時間程度。浅い眠りを繰り返すだけ。
深く意識を落として眠ったのは、どれだけ振りだろう。
そんなことを思いながらリビングに行くと、健斗が三人掛けの皮張りのソファの上で窮屈そうに眠っている。
リビングと続きになっているダイニングキッチンを見れば、吉良が料理の最中だった。
大理石のカウンターテーブルを挟み、何かを盛り付けている彼女が、不意に顔を上げて俺を見る。
呆れたような、やっぱりというような顔をして小さくため息を漏らす。
「…人の言う事を全然聞かないんですね?」
「人が料理する所って、俺、見たことがなくて」
それが目的ではないけれど、嘘ではない。
俺の母親は料理など一切しない女性。榊の家では料理人が作った物を食べるだけ。恋人関係になった女性には、料理などさせたことはない。
だから、どのように料理をしているのか、興味は多少あった。
俺がダイニングテーブルの椅子に腰を下ろすと、吉良は首を竦め、引き出しから何かを取り出した後、冷蔵庫からも何かを取り出して盆に載せて俺の傍に来る。
「良かったらどうぞ」
白磁の陶器の小鉢が一つと、ガラスの小鉢が一つと銀のスプーンが俺の前に出される。
陶器の小鉢の中にはカラメルソースのかかったカスタードプリンと、ガラスのそれにはグレープのゼリーがある。
思わず、吉良を凝視する。
幼稚過ぎてイメージにそぐわないので公に出来ないが、プリンは俺の大好物だ。特に、カスタードプリンは。
これは偶然なのだろうか。それとも…。
「もしかして、甘いものは嫌いですか?」
「別に嫌いではないけど、どうしてこれが出てくるのか解らなくて」
「食欲がなくても、喉越しの良いものなら食べられるかなと思って、作っておいたんです」
確かに食欲はないけど、吉良が言う様に、これなら食べられそうな気がする。
「…どうして二種類?」
「嗜好の問題もあるので…もし二つとも駄目でしたら、ヨーグルトとアイスクリームもありますよ?」
「いや、これで良いよ」
何だろう、この用意周到さ。かゆい所に手が届くと言うか、嗜好問題まで考慮して人の行動の一手先を考える手の回し方は、俺には無理だし全然思いもつかない。
吉良がこういう行動をとってくれているから、俺は何時も病院で嫌な思いをあまりしないのかもしれない。
俺が思うより先に、いつも吉良が行動して対処してくれるから、嫌とか、怖いと言う感覚をあまり感じなかった。
これまでは全く感じなかったけれど、吉良はやはり凄い人間なのかもしれない。
俺はスプーンを持ち、カスタードプリンから手をつける。
プリン自体の甘さは少し控えめで、カラメルの苦みと甘みがほんのりプリンに絡んで、卵の風味もバニラの香りも程良く活きている。プルンとして喉越しも良い。
俺が食べた歴代のプリンの中でも、お世辞抜きで美味しいと思える。
どこかの店の物と言っても、遜色はない。
気付けばあっという間に容器は空になった。
「お腹、空いてまし…わっ、な、何ですか!?」
傍に居た吉良の手を取り、俺は両手でその手を握ると、彼女に顔を寄せる。
吉良は困惑したように、身を逸らし逃げようとする。
「ち、近いです、榊さん」
「めちゃくちゃ美味いんだけど、ホントに貴女が作ったの?」
「と、友達にパティシエが居るんです。その子から、洋菓子のレシピを教わったんです。必要なら、レシピ書きましょうか?」
「いや、俺作れないから…どうせなら、また作って」
「まだありますから、もうひとつ出しましょうか?」
「あるだけ出して」
手を離し、姿勢を戻した俺がそう言うと、吉良は少し驚いた顔をする。
「あるだけ?あと四つはありますけど」
「全部食べる」
「…気持ち悪くなりますよ?」
「食べる」
俺からしたら、五個くらいは普通なのだけど…
そう言ったら、吉良はどういう反応をするのか気になったけれど、止められそうだからあえて言うのは止めた。
少し考えた後、吉良は冷蔵庫に行き、あるだけのプリンを出して持ってきてくれた。
「知りませんからね?」
念押しをして、吉良はキッチンに戻り料理を再開した。
俺は久しぶりのクレーム・ランヴェルセを堪能した。