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目が覚めた時、馴染むとまではいかないも、見た事のある天井がまず見えた。ゆっくりと視線をめぐらせれば、ディスプレイも人任せのショールーム仕様の寝室。
部屋の装飾になんて一切興味はない。ほとんど、帰って来ることすらない名前だけの家。それでもベッドだけは、寝心地重視で選んだキングサイズのベッドを買った。
眠れるわけがないと分かっていても、僅かな期待を込めて買ったこのベッドにすら、片手で余るほどしか横になった事はない。
そして、当然の様に心地良い眠りなど迎えた事もなかった。
そんなベッドの上に、俺は居た。
“俺の部屋?”
遮光カーテンの細い隙間から、オレンジの光が差し込む。
窓の方角は東。夕日である筈はない。
どれだけ時間が経過したのか、どうして自分の部屋に居るのかが把握できなかった。
“撮影中に気分が悪くなって、気付いたら病院に居た様な気がしたけど…あれも夢か?”
ぼんやりと宙を仰ぎ見ていた俺の視界の右端に、嫌なものが映る。
どうやら俺の右腕には点滴が入っているらしい。
刹那、体の中を這いずり回るように恐怖が湧き上がり、身体が大きく震えた。思わず右腕の管を引き抜こうと、上体と左手を動かした。
が、思わず手を止める。
床に座り込んだ格好でベッドにもたれかかりながら、うつらうつら眠っている女性が居たからだ。
“…吉良?”
俺は彼女の手首を握りしめていた。
彼女は俺の動きに目を覚ましたのか、パッと顔を上げる。
ノーメイクのせいか、目の下にうっすらクマは出来ているのがわかる。
寝ていなかったのか?
「気がつきました?」
空いた手の指で目をこすりながら吉良はそう尋ねて来る。彼女の服は、白衣ではなく、私服。それもかなり簡素でラフな格好だ。機能性重視という感じだけど、服のデザイン性を疎かにしている訳でもなく、趣味は悪くない。
そんな所を冷静に見てはいたけれど、一体何がどうなっているのか、状況が全く分からない。
「…また夢?」
「…何処から夢だと思ってるんですか?」
呆れたようにつぶやいた吉良は、俺が握ったままの手を持ち上げる。
「そろそろ、手を離してくれません?夜中からずっと、こうなんですけど」
俺は訳が分からないまま、吉良の手を離す。彼女の手首には、少し赤い痕が残っている。
自由になった手を、吉良はそっと俺の首に伸ばして触れる。
「少しは熱も下がったみたいですね。なにか飲みたいものとか、食べたいものあります?」
「…それより、どうして貴女が此処に?」
「昨日の昼、貴方が入院した病院に、院長に無理矢理連れて行かれたんです」
「…何のために?」
「暴れている貴方を止めるためにでしょう?」
あぁ。あれも現実か…錯乱すると、夢と現実の境界線が解らなくなる。
と言うことは、俺はまた点滴で我を失って暴れたと言う事だ。
「…吉良が俺を止める?無理だろ…男が五人がかり押さえ込むくらいなのに」
病弱だった体を鍛えるために始めた空手で鍛えられた腕っ節と筋力が、自制の効かない状態になると、俺を暴徒に変える。
唯一、一人で俺を止められるのは健斗だけ。
健斗も空手は有段。おまけに、趣味の山登りのために体の鍛錬には余念が無い。
体重を絞り込んで着痩せしてインテリ然と見えるが、その実、健斗は意外に筋肉質でパワー系だ。
ただし、そんな健斗に止められると、力技だから互いに無傷では済まなくなる。
吉良のように華奢な女性に、その正攻法で俺を止められるわけがない。
「救急外来に配属されていた頃は、痛みで錯乱している人が暴れて処置にならないことがあって。その対処法が役に立っただけですよ」
こともなげにそう答えて苦笑した吉良に、俺は彼女が何をしたのか思い出す。
「パニック状態を止める為に、強い衝撃を貴方に与えたかったんです」
「…あれは、痛かったよ」
確かに、あの一撃は立派な衝撃だ。吃驚して一瞬頭の中が飛んだ。
だが、次に放った吉良の言葉のほうが俺には衝撃的だった。
「ですよね…ホントはあの方法じゃなくても良かったんです…ごめんなさい」
「…吉良もドS?」
「違いますから。院長みたいなカテゴリー分けはしないで下さい」
出来る事なら痛みのない手段の方が良かったけれど、今更どうこう言っても仕方がない。ただ、これまでの吉良の言動を鑑みて、俺は吉良の性格が隠れドSだと確信をしている。
「美菜先生に怪我をさせたから」
言われて、大事なことを思い出す。
おぼろげだけど覚えている。俺、美菜様を殴り飛ばしたんだ。
身体から一気に血の気が引く。
理性の無い状態で暴れていたから、かなりの衝撃だったはず。
「美菜様、大丈夫だった?!怪我は!?」
思わず吉良の両肩を掴んで、詰め寄る。吉良は困惑した様に笑い、肩にかかった俺の手を離して距離ととる。
「外傷はタンコブだけでしたし、CTも、脳波も異常は無かったです。ただ頭を打っているので、大事をとって一泊入院させるって院長が」
「…良かった」
「ただ、貴方が酷く暴れてしまったので、貴方の方は病院側から強制退院を言い渡されてしまったんです」
「…だろうね」
あれだけ派手に暴れれば、当然だ。
頻回に吉良に点滴をされても、多少の怖さはあっても暴れることは無かったから、点滴に対する耐性も付いてきたのだと思い込んで、今回は完全に油断していたのかもしれない。