41 ~紫苑side~
第九章 クレーム・ランヴェルセは甘くて苦い
病院は嫌いだ。
点滴も、注射も、病院も、それに随伴する医療従事者を含む全てが。
白くて何もない薬品臭い部屋に一人置き去りにされて、熱にうなされて悪夢ばかり見た。
待てども戻ってこない母親に捨てられたと気付いたのは、肺炎をこじらせて死に掛け朦朧とした意識の中。
『母親はまだつかまらないの?』
『子供を捨てて海外にトンズラしたわよ』
『じゃあ、雄副院長は?』
『学会でドイツ。連絡したけど、日本には戻ってこないそうよ』
『仕事人間の副院長らしい。子供程度じゃ、動じないって事か』
『まぁ、ろくでもない愛人の子供じゃ、愛情も湧かないわよねぇ…』
『副院長には既に後継者になる御子息が居るし、こんな身体の弱い子供、邪魔なだけだろ』
『このまま死んでも、死んでくれてよかったとか思うかもな』
微かに届いた声。
“僕…捨てられた…の?…要らない子?”
子供心に深く傷ついた言葉。嘘だと信じたかった半面、俺にそっけない両親の態度にやっぱりそうかとも思った。
救いようのない絶望感が、弱った体と心を蝕んでいく。
俺は体中管に繋がれて、身動きが取れない俺の周りを医者と看護師が囲んでいた。
ぼんやりとした視界の中、見下ろす大人の威圧感と蔑みの感情が皮膚を刺し、弱りきった俺を恐怖に貶める。
“殺される”
まるで俺の死を待つかのように冷笑を浮かべ見下ろす白い悪魔たちに、俺はそう感じた。
彼らが俺に施す点滴や注射の中に、俺を殺すものが入っているのではないかと、怖くて怖くて、いつも怯えた。
針を刺される痛みが、心臓をナイフで一突きされる瞬間と同じ恐怖を与え続けた。
ぽたりぽたりと、管の中を落ちていく点滴の雫が、誰もいない孤独を刻む時計のようであり、俺の体に入り込む毒の進入する音のようでもあった。
いつ殺されるのか、体が完治するまで恐怖は続き、それは心に根深く突き刺さった。
大人になった今も、病院、医者、看護師をみるとそれを思い出す。
特に、点滴は駄目だ。
心が恐怖を思い出し、錯乱する。
誰も信用できなかった。特に、親父の手先のような医療従事者など。
『なんだ、生きていたのか』
一命を取り留めた俺に、帰国して顔を見せに来た親父のその一言を、俺は忘れない。
俺を捨てた母親がろくでなしなら、死を期待していたかのような暴言を吐いた父親は人でなしだ。
そんな男が生業とする医者も、それに関わる医療の全てが信用できない。
なのに…、どうしてこいつらは俺に点滴をする?
嫌だといっているのに、どうして押さえつけて強引に治療を押し付ける?
俺はそんな事、望んでいない!
こんなところ(病院)に、誰が連れてきた…。
俺を、殺すつもりか!?
『榊紫苑!』
俺の苛立ちを切り裂くように、怜悧でよく通る女の声が俺の中に響く。
聞き馴染んだ声に似ている。
“誰だ?”
そう思った瞬間、強い衝撃が俺の左頬を襲った。
最初は衝撃だけ。でも、一呼吸置いた瞬間、強烈な痛みが来た。
同時に、わけも分からない痛みに怒りが込み上げる。
相手を睨みつければ、そこにいるのは柳眉を逆立てた長身の女性。
見慣れた白衣姿の彼女に、目を疑う。
俺、熱と恐怖で頭がおかしくなったのか?
それとも、夢を見ているのか?
何処までが現実で夢なのか、区別できない程の…。
目の前にいるのは、ただ一人、俺に医療行為で恐怖心を与えなかった看護師。
彼女は健斗の病院に勤めているはずなのに、どうして此処にいるのか理解できない。
吉良は俺が何をしたのかを諭す様に、話しかけた。
怒りながらもそれを堪えて、俺の体を気遣う言葉をかけてくる。
それだけで、心が落ち着いていく。
どれだけ嫌いと言っても、彼女は患者である俺を見捨てない。
俺に向き合って、俺を視て言葉をくれる。
嫌々でも、渋々でも、看護師としての彼女は、医療行為に嫌悪して怯える俺をそっと救ってくれる。
榊一族の不要な人間としてでもなく、有名な俳優としてでもなく、一人の患者として向き合ってくれる。
媚びる為ではないと分かるほど、徹底して仕事を中心とした行動は心地好くもあり、何故だか苦しくなる。
健斗と彼女の気兼ねないやり取りが、羨ましいとさえ思う。
“もっと、吉良に近付きたい…”
俺の腕を取り、止血してくれる吉良が近くて遠い。
無意識に、俺は吉良の体を抱き寄せた。
その温もりも、仄かに鼻梁をくすぐる彼女の香りに安堵する。
誰も俺に与えられない、俺自身でさえ見つけ出せない安らぎをくれるのは、吉良しかいない。
彼女でなければ駄目なのだ。
俺を傍で看てくれる看護師は…。