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§
「お疲れ様でした」
診療を終えた院長に、いつものようにコーヒーを淹れて運べば、やや疲れた様子でそのコーヒーを受け取る。
土曜日と言うこともあり、患者さんの数がいつも以上に多くて診療時間も一時間近くオーバーしてしまった。
院長が見るからに疲れていたので、お茶請けに頂き物のチョコレートを二つ添えてある。
それを見た院長が机に肘をついたまま、額を指で押さえながら深いため息をつく。
「お前、まだ怒ってるのか。いい加減、機嫌を直せ」
「…いえ?別に今は怒ってませんけど?」
「だったらどうして、チョコレートを添えた」
甘いものが全般苦手な院長は、不機嫌にそう尋ねてくる。
私としては、掃除機を院長にかけてもらった時点で、院長への怒りはなくなっているのだけど、院長はそうは思っていないらしい。
診療前に掃除機をかけさせたことを、ひそかに根に持っているようでもあったけれど…。
「疲れた顔をしていたので。チョコレートには疲労回復効果があるんですよ?それは、院長でも大丈夫なビターチョコレートです」
院長は怪訝そうな顔をし、チョコレートの包装を剥き、それを口にする。
「…まあ、甘さは及第点だ」
一応、名の通った美味しいと評判の高級チョコレートなので、まずいとは言わなかったけれど、早々にコーヒーで口の中にあるチョコレートの余韻を流し落していた。
「後五分したら、掃除するのでお部屋開けてくださいね」
「あぁ」
私が診療室を出ていく間際、机の上に置かれた院長の携帯電話のバイブレーションが聞こえる。携帯電話を手に撮った院長は、ディスプレイに表示された文字を見て、眉間に深い皺を寄せて通話ボタンを押した。
「あぁ、俺だ。どうした?」
院長の通話の邪魔にならないよう、そっと診療室の扉を閉め、そのまま給湯室に戻ると、結城さんがハーブティーの棚をごそごそしていた。
「あ、あげちゃん、カモミールとローズマリーの茶葉がもうあらしまへんのよ。発注、もう無理やろか?」
カウンセリングの時に用意するハーブティーの茶葉を整理していた結城さんが、困ったようにそう尋ねてくる。
「え?たしか昨日、その二つ届いてますよ?昼休憩中に院長が受け取りしてましたから」
「健斗先生、何処にしまわはったんやろ…」
そういえば院長は、「しまっておいたぞ」って、珍しく気を利かせて行動してくれていたけど、ハーブティーの茶葉なんて触った事のない院長は片付ける場所を知らないはず。
そうなると、どこに‘隠した’のだろう。
“下手に探すより、聞いた方がこれは早そうね”
「院長に確認した方が良いですね」
「そんなら、うち、聞いてきま…」
結城さんの声を塞ぐように、大きな音がクリニックに響き渡る。
音からして、診療室の扉を勢いよく開けたのだろうけど、ちょっと大き過ぎる。
「な、何やろか…」
私と結城さんは顔を見合わせ、給湯室から顔を出し、診療室のある廊下に視線を向ける。
「吉良っ!」
「は、はいっ!」
白衣を脱ぎ、激怒した様子の院長が私の名前を呼んで歩いてくる。
見るかに般若の形相と、下手に関わったら殺されそうなほど危険な殺気を立ち昇らせて、院長は大股で近付いて来る。
何度かこれを見た事のある私は、かろうじて動く足で廊下に出る。
院長が本気で怒っている所を見たことがない結城さんは、顔面蒼白して硬直している。
“さっきの電話で何かあったのかしら…”
がしっと腕を掴まれ、そのまま院長に引っ張られる。
「え、ちょっと、何ですか!?」
「病院行くぞ」
「は、えっ!?何処のですかっ!?」
「紫苑の奴、入院先で治療拒否して暴れてやがる」
「あの人、入院したんですか!?というか、嫌ですよ。榊紫苑の所なんて!」
「つべこべ言うな!美菜でさえ手に負えねぇんだ。犯すぞお前!」
「お、横暴ですっ!」
美菜先生絡みになると、この院長は傍若無人ぶりに拍車がかかる。
気迫に気圧され容赦なく引きずられる私を、結城さんが心配そうに見ている。
「あ、あげちゃん…」
「ハーブティーは帰ったら何とかするので、あ、後片付けと戸締りだけ、しっかりとお願いします!」
「お、お気張りやすー!」
遠くなる結城さんの声を耳にしながら、私と院長はクリニックを後にした。