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「な、なんですか…院長」
「上坂伊織って野郎、お前どう思う?」
そう問われ、私は首をかしげる。
どうと言われても、絢子さんが大ファンの‘かなり有名な若手俳優’と言う事しか知らないし、顔も良く覚えていない。
フルネームを言われて、ようやく誰かわかるくらい。
私、仕事以外の環境で人の顔と名前を覚えるのが苦手で、芸能関係の人の事が全く分からない。上坂伊織という人は、絢子さんがいろいろ話をしてくれるから、何となく記憶にあるけど、仕事に直結しない人は手当たり次第忘れていくの。
その代わり、仕事で携わった人の事は細部まで覚えているの。
だからよく、街の中で久しぶりって声を掛けられても、誰だか解らない人が居て困るの。院長には、日頃からもう少し浅く広く人間を覚える努力をしろって叱られるけど、どうやっても覚えられなくて…。
あ、そう言えば上坂伊織って、良く週刊誌にゴシップ記事を書かれているとか、絢子さんが言っていたっけ。
貞操観念が総崩れで、無駄に顔だけは良かったという印象だけがある。
“…あれ…なんだか似たような印象の人間が、最近、身近にいたような気がする…”
ちらりと榊紫苑の顔が脳裏をよぎって、再び、眉間に力がこもる。
慌てて頭を振った。
あんな女性の敵、二人も三人も要らない。
気のせい。気のせいってことにしておこう。
「どうした、吉良」
「え、あ…いえ…芸能人なんて、関わることもない私には無縁の人ですから…まぁ、お大事にとしか言いようが…」
不意に、院長がものすごく変な顔をした。
なんだろう。少し憐れんでいるような、小馬鹿にしたような…とりあえず、良い感じはしない表情。
「…何ですか、その可哀想なものを見る目は…」
「お前、相変わらず芸能関係の知識が疎いままだな?」
「な、なんで…」
図星をさされ、私は怯む。
一応、覚える努力はしているのだけど、テレビすらほとんど見ない私には、芸能界の人間は、誰が誰だが良く分からない。
名前は聞けども、顔の繋がらない有名人が幾人か認識できているだけ。
「お前に知識があれば、その反応はあり得ない」
意味深な事を言われたけれど、何を指して言ってるのか、私には皆目見当もつかず、首をひねる。
「どうして?」
院長は深々とため息をつきながら、呆れ果てた様に首を横に振る。
「お前、その鈍さで紫苑の口説きもスルーしただろ」
今一番聞きたくない名前をさらっと言った院長は、私の白衣の襟首に指をかけ、軽く引っ張る。
空気と人目に晒されたそこには、絆創膏で隠した榊紫苑の置き土産がある。
「こんなものを簡単に付けさせるくらい鈍い女だからな、お前は」
「っ!!院長!何、人の襟開いてるんですかっ!」
ふしだらな手を跳ねのけようとすれば、逆にその手を掴まれる。
「その気もねぇのに、あいつを誑しこむな」
まるで私が榊紫苑を誘惑しているかのような口ぶりに、私の中にある太い何かがブツッと、重く大きな音を立ててちぎれた。
黒い何かが、私の中に満ちていく。
眼鏡の奥の院長の瞳が、わずかに大きくなる。
「榊のスケベ遺伝子と、電光石火の行動力を棚に上げて、私に説教ですか院長」
心を侵食する暗闇とは裏腹に、自分の表情に極上の笑みが浮かぶ。
人間、心底頭にくると、冷静なまま怒りがこみ上げるのよね。
「それとも私がふしだらで、下半身に節操のない猿女とおっしゃりたい?」
「いや…」
「訳のわからない理由を並べたててキスをする、キスマークは付ける。嫌だと言っても、何度も絡んでくる。一体、榊一族はどんな教育をしているんですか?」
「…そりゃ、紫苑の奴が単に欲求不満だっただけだ」
精彩を欠く返事をする院長は、握っていた私の手を離し、わずかに後ずさる。
逃すものかと、私は院長の白衣の襟を掴んで、自分に引き寄せる。
「そんな下種な理由、理由になりませんよねぇ?」
「…あいつ、お前に好きとも惚れたとも言ってねぇのか?」
「そんな榊の口説き常套句、信用の欠片もありませんよね?」
「…言葉は軽いが、嘘は言わねぇよ」
「その軽さが問題なんですよね?」
間近にある院長の表情は殆ど変わらないけれど、強張っている。
「お前、マジで落ち着け。何しでかしてるか、分かってんのか?」
「お説教しているんですよ、院長。分かりませんか?」
「…無茶苦茶キレてるだろ、お前」
当たり前でしょう。我慢も擦り切れ、許容の臨界も既に突破しているのに。
「…私、大っ嫌いなんですよ。榊紫苑が。嫌いな男に迫られて、迷惑してるんです」
何が悲しくて、何度もキスされなければならないのか。
特別勤務を外してくれと言っても、院長は外してくれない。二度と会いたくないのに。