36 ~吉良side~
第八章 普段おとなしい人間はキレると危険
人生稀に見る怒りを爆発させてから、一日が過ぎた。
私、怒っても、翌日以降にその怒りを持続させた事がなかったんだけど、今回はちょっと特殊みたい。
忘れたくても、鎖骨に近い首筋に残された消えない痕が、私にその時の事を思い出させる。時間が経っているのに、榊紫苑に触れられていた感触がまだ私の中に残っているみたいで、思わず身体がゾクリと震える。
一度ならず二度までも…一度なら、なかった事に出来た。榊のいつもの戯れが少しだけ過剰だっただけだって。
なのに、お風呂上りに迫ってきた二度目のアレは危うすぎる。
頭の中は嫌だって訴えているのに、身体が榊紫苑のキスに抗えなかった。
あの人のキスは危険。手慣れていると言うか、巧いのだと思う。抗う気持ちさえ削いでしまうほど。
節操のない榊紫苑も嫌だったけど、そんな男の口付けに一瞬でも囚われてしまった自分はもっと嫌で、許せなかった。
心のささくれ立ったものが嫌でも刺激されて、恥ずかしいよりも苛立ちが止まらない。
“あ、まずい…眉間にしわが寄ってる”
鏡を見なくても、自分の眉間に深く刻まれる不愉快ゲージが分かる。
大きく深呼吸をして気分を切り替え、掃除に集中する。
「あげはちゃ~~~んっ!」
朝、クリニックの待合室で掃除機をかけていた私に、受付事務員の藤堂絢子さんが私にタックルをかけるように抱きついた。
「うわっ!あ、絢子さん、ど、どうしたんですかっ!?」
危うく倒れそうになりながら、掃除機の電源を切って、背後にしがみついている絢子さんを見る。
十四歳になる息子が居るとは思えないナイスバディな絢子さんは、更衣もせず私服姿で、半泣き状態で私を見上げる。
「うぅ…伊織がぁ…」
「はい?伊織??」
「伊織が入院しちゃったのぉ」
「…伊織って……何処のですか?」
「上坂伊織よぉっ!」
要領を得ない私にギュッと抱きついて、お気に入りの俳優の名前を叫んだ絢子さんは、さめざめと泣きはじめる。
「あぁ、泣かないで下さい、絢子さんっ!」
「…朝っぱらから、百合の世界か?」
コーヒーカップを片手に、怪訝そうな顔をして院長が診療室から顔を見せれば、絢子さんは院長を睨む。
「今日休みますぅ」
「大泣きしながら出勤出来るくらい元気な奴に、休暇なんざやれるか」
「愛しい人のピンチなんですぅ」
「どうせアイドルとか言う、虚像だろうが」
「伊織は俳優ですっ!」
泣くことも忘れてそう力説した絢子さんに、院長は鼻で笑う。
「で、そのお前の愛しい俳優とやらは、どうピンチなんだ?」
「昨日の撮影中に高熱で倒れて、病院に搬送されちゃったんですよぅ。過労だって…だから、しばらく入院加療するって報道が」
「体調管理もできない野郎、一人前とは言えねぇな」
いつもながらの辛口の院長に、絢子さんは恨めしそうに院長を睨む。
「売れっ子なんだから、色々忙しいんですっ」
「ま、お俺には関係ない。そいつの女でもないお前も関係ない。仕事はやれ。以上だ」
「きぃぃぃぃっ!鬼っ!」
「あ、絢子さん、落ち着いて…」
「吉良、ちょっと来い。絢子は代わりに掃除してろ」
「悪魔っ!人でなし!あんたには優しさがないのかっ!」
「あると思うのか?」
鼻で笑った院長に、絢子さんはプリプリ怒っている。
「それが終わったら、とっととメイク直せよ?付け睫毛が片方外れてるぞ」
「!!!そんな大事なことは、早く言えっ、この野郎!」
言葉遣いがすっかり悪くなった絢子さんは、低く怒鳴って、慌てて化粧室に走っていく。
いつもながら、嵐の様な迫力美人。
すっかり地が出ている絢子さんが、実は元ヤンだったのは一応、彼女の中では秘密事項なんだけど、院長のせいでスタッフには周知の事実になってしまっている。
イケメン好きな絢子さんだけど、年下は好きだけど、年上には興味が湧かないらしい。だから年上の院長にも食指が向かないのだとか。
事あるごとに今みたいなやりとりがあるけれど、診察時間帯に口論になることはないし、険悪な雰囲気を引きずる事もない。
お互い大人だから、その辺はとてもドライ。
絢子さんは美菜先生が他所の病院から引き抜いてきただけあって、医療事務としての能力スキルも、接客的な能力もとても高い。
そして何より、美菜先生と院長好みの美人。
私以外はみんな美形なの、この職場。だから仕事中、私の容姿は普通すぎて浮くのよね。
「おい、吉良」
彼女の後姿を見つめていた私の傍に、いつの間にか院長が立っていた。
しかも、顔が異常に近い。
触れてしまいそうなほどの至近距離に、クリニックの美形筆頭の顔があって、思わず私は体をのけぞらせた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
寒くなってまいりましたので、皆様、お風邪を召しませんようご自愛くださいませ。