31 ~紫苑side~
第七章 時にはハンターの様に
「…っ、榊紫苑の莫迦ぁぁぁぁぁっ!」
シャワーを浴びている最中、そんな吉良の絶叫がかすかに聞こえた。
声の調子から、かなり激怒しているのは明白。
大方、首筋に付けた痕にでも気付いたのだろう。
降り注ぐ湯に打たれながら、俺は自然に口元が緩んだ。
見える場所に、わざと残したのだ。
しばらく困ればいい。
俺の行動を、無視できなくなるくらい。
俺の事が、脳裏から離れられなくなるくらい。
§
シャワーを浴びた後、さっき寝ていた客室に仕事用の携帯電話を忘れていた事に気づき、俺は取りに戻った。
扉を開けた瞬間、部屋からさっきまではなかった芳香が漂う。
吉良の纏う匂いと同じ香りとほぼ同じである事に、すぐに気付いた。
中を見ればそこには、吉良がスプレーボトルで何かを噴霧していた。
彼女の首には、美菜様のスカーフが巻かれている。
応急的に、痕を隠したのだと分かる。
「…居たの?」
あのまま怒って帰ったものだと思っていた俺は、彼女が居る事に驚いた。意外に神経が太いのか?
床に丸めて置いてあったベッドマットと、シーツを吉良は拾い上げる。
ベッドに視線を向ければ、シーツが変わっていた。
「居ますよ。仕事ですから」
「仕事?」
「特別労働として、院長からお給料をもらうことになったので、どんなに貴方が嫌でも、お金の分だけは働きます」
「給料って、いくら?」
「今回は、通常の看護師の時間給の三倍です。貴方から受けたセクハラを考えれば、安いくらいです」
淡々と言葉を返す吉良に、見えない鋭い棘を感じる。
余程、頭に来ているのだろう。
それでも仕事をこなすのは、仕事に対するプライドなのか、その時間給のためなのか、俺には良く分からない。
そもそも、看護師の時間給なんて俺は知らない。
「…今回は、ってことは、何度かそう言う勤務を?」
「貴方の診察の時は、全部、特別勤務です」
「…吉良って、どうして俺の診察に立ち会うことにしたの?」
「給料が良かったからです。老後を考えたら、蓄えは多くしておかないと」
“二十代で既に老後の心配?”
何というか、吉良の考え方は独創的だ。
「金を持っている男と結婚すれば、別にそんな心配しなくてもいんじゃないの?」
「一人で生きていくって決めたので、結婚も恋愛も、要りません」
そう言った彼女の言葉には、かなり強い決意が含まれているのを感じた。
一瞬、垣間見えた、誰も寄せ付けない雰囲気が、その言葉の根底にある物の根深さを語っているようでもあった。
「彼氏も?」
「いたら楽しい事も増えますけど、居なくても不自由する事がないので。今は欲しいとも感じません」
彼女のその一言が、俺の中に黒い靄を作る。
吉良はシーツを抱えながら、部屋の出入り口を塞ぐように立っていた俺の前に立つ。
そして、手に持っていたスプレーボトルを俺に差し出す。
何でもない、小さなスプレーボトルの中には、透明な液体がたくさん入っている。
「今日、此処で休んで効果があるなら、このルームフレグランスを寝室で使ってください」
「この部屋の香りと同じもの?」
「ええ」
「これも仕事の一環?」
「…そうなりますね」
少し間をおいて答えた吉良は、ずり落ちそうな剥がしたシーツ類を抱え直し、ボトルを手にした手を更に俺の前に付きだす。
仕事だから。
そんなことは当然のことなのに、気に入らない。
当然の様になされる彼女の気遣い。
仕事となった途端に、先程の気まずさすらなかった事の様に包み隠して俺と向き合う‘大人の対応’に、酷くイライラする。
「…榊さん?」
「あ、あぁ。ありがとう」
俺は差し出されたフレグランスボトルに、そっと手をのばす。
そして吉良の手ごと掴んで彼女の体を引き寄せる。
バランスを崩した吉良は、持っていたシーツを落とす。
俺は驚いている吉良の腰に腕を回し、そのまま、彼女の顎を捉えて唇を重ねる。
「んんっ!」
床に、ボトルが落ちる音がする。
吉良が俺を押し退けようと抵抗すれば、俺は彼女の唇をこじ開け、深く口づける。
逃れれば追い、誘い出して絡めて、思考を遮断するように腔をゆっくり犯していく。
吉良の抵抗は次第に消えていき、代わりに耐えるように俺のシャツをきつく握りしめる。
触れては重なる唇の隙間から、苦しげに零れる吉良の吐息は甘く気だるいものに変わる。
重ね交差する熱も、上気する呼吸も、堪えるように苦悶する表情も、劣情を駆り立てる。