29
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美菜先生と食事を済ませ、私は飲み物と小さな土鍋に作ったおかゆを持って、榊紫苑の眠る客室に入った。
相手は、眠っていなかったのか目が覚めたのか、顔を上げて私を見る。
「気分はどうですか?」
「…すこし、楽かな」
榊紫苑は、ゆっくりと体を起す。
ベッド横にあるボードの上に、私は手に持っていたお盆を置く。
点滴は、美菜先生が食事の前に外してくれている。
ボードの上に最初に置いてあったスポーツドリンクに、彼が手を付けた形跡はない。
私は電子体温計を取り出して、榊紫苑に手渡す。
彼は何も言わずに受け取り、脇に体温計を挟む。
汗で彼の髪が濡れて、額や頬に張り付いている。
シャツも結構濡れていて、かなり発汗したようだった。
「汗を拭いて着替えた方が良さそうですね」
「いっそ、風呂に入りたい」
「今日は我慢してください。着替えと体を拭く物を、持ってきますから」
「待って」
踵を返しかけた私は、相手に向き直る。
「何か欲しいものでも?」
「…そうじゃなくて」
「?」
「その…ありがとう。駐車場で俺を助けてくれて。看病してくれて」
予想もしない相手の素直なお礼の言葉に、驚かされた。
「本当は、俺と関わりたくなかっただろ?」
その言い方が気に入らなくて、彼の額にデコピンを食らわせた。
そんなに強くは叩いていないけど、相手は驚いたようだった。
「あんなことされたら、気まずいに決まってるじゃないですか。好きでもない人に、キスなんて、軽々しくするものじゃありません!」
「…好きならいいの?」
筋違いの事を言われ、自分の眉間に深い皺が寄るのが分かる。
「ダ・メ・で・す!キスしたいなら、恋人にすればいいじゃないですか。自分の行動を、きちんと反省してくださいよね」
「…やり過ぎたとは思うけど、吉良にキスした事は悪いと思ってない」
頭が痛くなってきた。
この人の理論が理解できない。
そもそも反省してないし、あまつさえ私を呼び捨てにしている。
「貴方、不眠症で思考回路がおかしくなってるんじゃないですか?」
「…あぁ、そうかも…仕事であり得ない大きなミスするし、自分の感情制御が出来ないんだよね」
こともなげに、さらりと怖い事を榊紫苑は言う。
ピピピッと、電子体温計が鳴り、榊紫苑は体温計を抜いて私に差し出す。
受け取った体温計の指し示す体温は、三十六度八分。
「下がった?」
「ええ。でも、ちゃんと休んで下さ…ちょっと!」
私がいる側とは反対のベッドサイドから降りた榊紫苑は、部屋の扉に向かって歩き出す。
「風呂入る」
「人の話、これっぽっちも聞いてないんですか!?」
慌てて先回りして榊紫苑の前に立ちはだかれば、刹那、腕を掴まれたと思ったら視界が大きく揺らいだ。
気付けば天井と榊紫苑の顔が見え、ベッドに体を押さえつけられていた。私の上に榊紫苑が馬乗りになっている。
慌てて暴れてみても、びくともしない。
覗きこむ男の表情は、それまで見た事のない色気のある顔で、思わず息を飲んだ。
何て言うのだろう、エロい?大人の魅力というか、情事に誘っているような淫靡な感じが、背筋をゾクゾクさせる。
やだ。こういうのものすごく苦手で、全身に鳥肌が…。
「な…何してるんですかっ!」
「…キスしていい?」
「だ、駄目に決まってるじゃないですか!」
やっぱり人の話をまるで聞いてない。頭か耳が、絶対ザルになっちゃってる。
しかも、無駄に色気がムンムンしてる!
ここで負けたら、昨日より酷い事が起きる予感がひしひしする。
絶対、負けちゃ駄目だ、私。
「仕事でミスしたの、吉良のせいだよ?」
「どうして私が…」
「仕事中、吉良の顔がずっと浮かんで、仕事に手がつかないんだ」
「勝手に思い浮かべないでください。出演料とりますよ」
「体で払うよ」
「意味分かりませんからっ!」
「分かるように実演しようか?」
「そういう意味じゃあり…っ!」
左の首筋に、柔らかな感触が触れたと同時に、軽く突き刺すような痛みが走る。
思わず、全身がびくりとはねた。
“首に、キ、キスされたっ!?”
「貴女の匂い、好きなんだ」
耳朶もとで淫靡な声で囁かれ、一層、背筋に走った悪寒が悪化する。
なのに蟲惑的で、まるで恋人にでも語るかのような甘い響きに、自分の頬が熱を持つ。
”な、なんなの!?この、エロフェロモン垂れ流し!?”
この男は、危険すぎる。
天性の女ったらしだ。