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「健斗はあたくとのお見合い当日に、その気のないあたくしを抱きましてよ?」
衝撃的事実に、がちゃんと、私のカップが音を立てて机の上に倒れた。
「きゃぁぁぁっ!ごめんなさいっ!」
食器は割れなかったけれど、折角のハーブティーが盛大に大理石の机の上に広がる。
慌てて立ち上がれば、小野さんが手早く布巾を持ってきて、濡れた場所を拭いてくれる。
「吉良様、お濡れになりませんでしたか?」
「だ、大丈夫です。すみません」
「いえ。代わりの物をお持ちいたしましょう」
そつなく机の上の惨劇を片付けて、小野さんは一礼して下がる。
席に再び腰を下ろした私は、恥ずかしくて美菜先生が直視できない。
院長と美菜先生は研修医の頃に顔を合わせているけど、そのあとで一族絡みでお見合いをして婚約、結婚という流れをとっているとは聞いていたけど…。
“院長、どれだけ野獣なんですか。お見合いの当日とか、ホントに!”
「あげは、男なんてものは須らくケダモノ。榊の人間だからこそ、欲望に忠実だと思った様がよろしくてよ?」
確かに、美菜先生の言う事には一理ある。
欲求を抑えることなんて、榊一族の人間にはまずない。我慢しなくても、欲しいものは榊の名で全て手に入れられる。
だからこそ、行動が放埓なのだ。
院長然り、榊紫苑然り。
「あげは、健以外の男に操を捧げては駄目よ?貴女には、健の愛人になっていただかなくては困りますのよ?」
「…う…それは…院長への愛がこれっぽっちもないので、どれだけ頑張っても、無理です」
「何を仰いますの!」
突然、美菜先生が立ちあがる。
「あたくしは、貴女と健の子供が欲しいのよっ!貴女以外の女に、健斗の子供を産ませるなんて、あたくしは嫌ですからね!」
美菜先生は、二十代の時に巨大な子宮筋腫が見つかり、子宮を全摘している。
だから子供が産めない。
それを知っているのはごくわずかの人で、院長は承知の上で美菜先生と結婚している。
子供がいなくても良いと言う院長に対して、美菜先生はどんな形であれ、院長の子供が欲しいと思っている。
でも、愛人にしても人工授精の代理母にしても、美菜先生のお眼鏡にかなう女性が見つからない。
それで、付き合いが長くて気心が知れている私に、白羽の矢がむけられているのだけど。
何度お断りしても、美菜先生は諦めてくれない…私にも事情というものがたくさんあるのだけど。
「いくらなんでもそれは倫理的に無理です、美菜先生…」
倫理的にまず無理だし、院長は好きだけどそれは恋愛感情じゃないから論外。例え驚く様な大金を積まれても、そんな関係になるつもりは毛頭ない。
「それに…家族はもういらないんです」
私の家族はもういない。
借金を作って、それを娘の私に擦り付けて何年も豪遊して生きた両親を、私は捨てた。
私に兄弟は居なかったし、親族は、借金の問題で掌を返したように疎遠になった。
数千万円にも及ぶ借金を返すために、一人で頑張って頑張りぬいて、大好きな看護師の仕事でさえ辞めて、夜の仕事をした。
それでも日増しに膨れる借金が、私を追い詰めて昼夜構わず働いて、体を壊した。
どうしようもなくなった時、手を差し伸べて助けてくれたのは院長と美菜先生だった。
今、誰も恨まずに、こうして看護師として生きていけるのは、二人のおかげ。
だから、院長や美菜先生の為なら、多少無理をしてでも願いをかなえたいと思うけれど、こればかりは無理。
「だから、どうしても、叶えられません」
美菜先生の表情が曇る。
「…謝らないでくださいまし。それに、人間の気持ちに絶対的な不変はあり得ませんもの。貴女の心が変るまで、気長に待ちますわ」
この場は諦めてくれるけど、完全にはやっぱりあきらめてくれない美菜先生に、思わず笑みがこぼれる。
「そうですね…人はいつか変わるものですよね…でも、今はお一人様生活を満喫しているので、恋人も恋愛もまだ遠慮したいです」
「その気になったら、すぐにおっしゃって。健ならいくらでも貸しますから」
慌てて私は首を横に振る。
「い、院長は美菜先生一筋なので、遠慮します。私は私だけを必要としてくれる人を探しますから!」
「ふふっ、あげはったら欲張りさんですわ。でも、女はそうでなくては」
優雅に笑う美菜先生に、ほっとする。
そして、不意に思い出す。
「あ…美菜先生、お夕食どうしましょう?」
「そうね…今日は、午後からシェフに休みを与えてしまいましたし…」
ディナーの為に予約したお店はキャンセルしてしまったし、まさか病人を放置して食事をしに行く訳にもいかない。
「私でよければ、何か作りますよ?榊さんのお粥も作らないといけないですし」
「まぁ!久しぶりにあげはの手料理は頂けるのね。是非、お願いしますわ」
「じゃあ、厨房をお借りしても良いですか?」
「勿論。お好きな物を使って下さいまし」
お言葉に甘えて、勝手知ったる程出入りしている榊邸のキッチンで、普段では滅多にお目にかかれない高級な食材たちを相手に、私はお料理を堪能した。
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