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美菜先生はアルコール綿で彼の腕を素早く消毒し、彼の腕を摘まむとそこに注射針を突き刺す。
「っつぅ!」
針がずれないよう、痛みで身じろぎしようとする彼の体をきつく抱きしめる。
すぐに注射は終わり、針を抜いた所をアルコール綿で押さえた美菜先生は、私に眼で合図する。
美菜先生が押さえていた所を、私が代わりに押さえ、薬液が体内に吸収されやすいように揉む。
「相変わらず、容赦ないなぁ…」
唸るように注射嫌いの男は呟く。
「貴方は痛い目にあって丁度良いのよ。これに懲りたら、自重なさい」
美菜先生は、点滴と注射に使った道具を持ってその場から立ち上がり、部屋を出ていく。
私は榊紫苑から離れる。
すこしフラフラしながらも、座った状態を維持する事を確かめ、ワイシャツを正してボタンを閉じる。
本当なら、ワイシャツが皺になるので脱がせたかったのだけれど、それよりも早く、美菜先生が点滴を刺してしまったから、仕方ない。
皺と汗で汚れる事覚悟で、着替えは院長の物を借りてもらえば良いだろうし。
点滴の針がずれていないか、腕を確認し、ぼんやりしている榊紫苑をベッドに横たえる。
「薬が効いて熱が下がった頃に、食事と飲み物を持ってきます」
立ち去ろうとした私の手を、熱を孕んだ手が掴んだ。
見下ろせば、榊紫苑が私の手を掴んでいる。
「…何ですか?」
「…なんで俺の事、助けてくれたの?」
「病人を助けるのが私の仕事だからです…病人はまず、きちんと休んで体を治すのが仕事ですよ」
腹も立ったけど、病人にお説教するのも気が引けるし、とりあえず元気にはなってもらわないと。
「…吉良さん、大人だね…羨ましいよ…」
「貴方よりは年上ですから」
「そういう意味じゃないよ…」
榊紫苑は私の手を離し、そう呟いてかすかに笑った。
その笑みが物憂げに見えたのは、彼の心情が揺れているからか、それともただ熱で力がなかっただけなのか、私には推し量る事は出来なかった。
§
「貴女も少し、休憩なさって」
榊紫苑が眠ったのを見届けてからリビングに行くと、美菜先生は既に執事の小野さんにハーブティーを入れてもらって、優雅に飲んでいた。
女の私から見ても、ため息が出るほど無駄のないプロポーションの美女。
しかもお金持ちで、医者なのだから神様は才能の与え方を間違っている気がする。
八人掛けの大きな大理石のテーブルを挟み、私は美菜先生の前の席に腰を下ろした。
ロマンスグレーの小野さんは、ハーブティーを淹れた白磁のティーカップをそっと置いてくれる。
「ありがとうございます、小野さん」
唇の端をわずかに緩めて、小野さんは軽く頷いた。
五十代後半の小野さんは、美菜先生専属の執事で、美菜先生が幼いころからずっと仕えているのだとか。
「無理を言いましたわ、あげは」
「いいえ。そもそも榊さんを見つけたのは、私ですから…」
「貴女が慌てて走っていくから、何事かと思いましたわ」
「すみません。体調が悪そうな人がいるなって思ったら、体がつい…」
本当は、美菜先生とディナーを食べに行く予定だったのだけれど、駐車場で病人を拾ってしまった。
声をかけてみたら、榊紫苑だったというオマケつきで。
だって、体調が悪そうな人がいたら、仕事外でも気になって声をかけたくなっちゃうのは、看護師の性なんだもの…。
美菜先生は、凄艶に微笑む。
「それが貴女の素敵な所よ…それにしても、しーちゃん、貴女に色々迷惑をかけたようですわね?」
「えぇ…まぁ…」
歯切れが悪くなるのは、昨日のキスのせいかもしれない。
「昨日の事は、野犬に軽く咬まれたと思ってお忘れなさい。榊の人間のする事なんて、何時もろくでもない事よ」
夫婦に同じ事を言われ、無意識に苦笑いが出た。
院長と美菜先生、そういう思考はものすごくよく似てるの。
「…美菜先生、榊の人間は、好きでもない女性にも平気でキス出来るものですか?」
過去、榊一族の男性を多く見て、女に節操がないのは良く分かるけど、その気のある女性にしか手を出していなかった記憶しかない。
榊紫苑の様なタイプは、初めて見た。
美菜先生は眼を細め、ティーカップを机の上に置いた。