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『たくさん召し上がったそうね?』
「まぁ、お世辞抜きで美味かったので」
『当然よ。味にうるさい健が唯一食べる女の手料理は、彼女の物だけ。不味い訳がありませんわ』
至極当然のように、美菜様は言い放つ。
彼女が家事全般に関しての才能が皆無だとは知っているから、美菜様が健斗に手料理を振る舞えないのは分かる。
それはいいのだ。
問題は、俺など男であっても、健斗と仲が良いというだけでこの扱いなのに、美菜様は女性である吉良に対して、何の嫉妬も抱かないのか?という点だ。
「…電話の理由、健斗の浮気調査?」
電話口で、相手がかすかに笑うのが分かる。
『むしろ、健にはあげはと浮気していただかないと』
問題発言に、俺は声を失う。
“正気か?”
美菜様は気に入った人間を、ファーストネームで呼ぶから、吉良は彼女に気に入られているはず。
だからと言って、夫である健斗の浮気を推奨するのはあり得ない。
俺の天敵は、そんな心の広い女性ではない。
結婚前、遊んでいた女の全てを清算していた健斗に対して、愛人関係でも良いからと交際の継続を持ちかけてきた女が何人かいた。
その女達は美菜様の逆鱗に触れ、美菜様の手によって社会的制裁が加えられた。
それは二度と、健斗の愛人になろうと言う女の存在が出ないほどの。
美菜様、一見すると容姿は艶やかで男受けが異常に良い軽い感じの女に見えるのに、貞操観念なんていう榊一族には一抹も残されていない物を、しっかり持っている古風な思想の人間なんだ。
俺が冗談半分で健斗との婚約期間中だった美菜様を口説いたら、延々四時間もフローリングで正座させられた上に説教を食らった。アレは本当に拷問だった。
そんな女遊びに関して厳しい猛妻が、浮気など許すわけがない。
許すとしたら、何らかの策謀を以てだろう。
『だからしーちゃん、あげはには手を出さないで頂戴』
言葉はお願いだが、言葉の威圧感は、女王然とした命令に聞こえる。
吉良に対して、やはり何かをするつもりだ。
『昨日の様に淫らなキスなんてなさったら、貴方の節操なしの口、二度と開口できないように緊縛いたしますから』
目の前に居なくても、彼女の凍てつくような彼女の表情が安易に想像できる。
電話の先の美菜様は、ダイヤモンドダストが吹きすさぶような、氷の頬笑み。
健斗の問題で、俺までとばっちりを食らいそうな気配だ。
「…普通、旦那が浮気しそうなら、邪魔するものだと思うけど?」
『あたくしを誰だとお思い?』
「…美菜様です」
『あたくしの計画の邪魔をなさったら、俳優として生きていられなくしますわよ?』
声は笑っているが、背筋が凍る。
こういう語り方をする彼女が一番、危険だと知っている。
邪魔したら、本当に俺は俳優として抹殺されるだろう。
彼女は、日本の美容業界でトップに立つ西宮グループ総帥の一人娘。正確には、美菜様には弟が居たが数年前にスキルス性の胃ガンで夭逝している。このため、ゆくゆくはその西宮グループを継ぐ身にあると、健斗が言っていた。
健斗との結婚後、美菜様が形成外科医の仕事を減らして会社経営に携わっているのはその為らしい。
そんな彼女の持てる権力と金を使えば、俺の俳優人生を左右するのはひどく容易な事だ。
「…ちなみに、計画内容を聞いても」
『貴方は言われた事を、素直に守ればよろしいの。警告は致しましたからね?』
黙って大人しく見ていろと、暗に彼女は俺を牽制し、彼女は電話を切った。
俺は、携帯電話を下ろし、小さくため息を漏らす。
美菜様と初めて普通に会話が出来たと思ったら、これだ。
小言を聞くより、精神的に疲れる。
それにしたって、浮気するまで放置するのは、彼女がこれまで見せていた電光石火の早業行動力と相反する。
それだけ、罠をめぐらして潰したいということなのだろうか?
自分が気に入っていた相手だからこそ、憎しみも増幅するという構図か。
“…どうせ、もう会えない相手だからな”
眼の前にあるハンドルに肘をかけ、その腕の上に顎を乗せて考える。
普段なら、美菜様の命令には素直に従う所だ。
あの人と悶着を起こすと、始末に骨が折れて面倒だから、必然的にいつも『回避』を選ぶのだが。
今回は従うまでもなく、もう会うことはないだろう。
美菜様が吉良に何をするのか、気にならない訳ではない。
あの人は、やる事が過激すぎるから、眼を離すと危険だ。
とはいえ、俺がどうこうできるはずはない。健斗でさえ、美菜様を抑止できないのに。
看護師としての吉良は優秀で、何より点滴に痛みがなく恐怖心を俺に与えないのは魅力的で、俳優業の話を一切しないのは高ポイントだった。
治療をするのに、失うには惜しい存在ではあったけれど、吉良がその他大勢の一人である事に変わりはない。
俺と吉良の関係は、看護師と患者であってそれ以上でもそれ以下でもない。
その関係すら途切れさせたのは俺。
看護師など、いくらでもいる。
なのに、この胸に巣食うモヤモヤは何だというのだろう。
苛立ちさえ覚える、この厭な感覚が消えない。