21 ~紫苑side~
第五章 それを人は気の迷いと言う
自分が女に対して、節操がないと言う自覚はある。
それでも、その気のない相手に手を出したことはないし、自分から手を出すことも、ほとんど皆無だ。
言い寄る女も、後腐れがない相手を毎回、選んで遊んできた。
それは、致命的なスキャンダルを回避するための鉄則だ。
大なり小なり、芸能界に入っている人間は生き残るために打算的に動く。
いわば処世術だ。
その中で、[恋人]関係になった相手もいたが、どれも長続きはしなかった。
『優しくしてくれるけど、本当に私のことを愛してる?』
と、言うのが別れた彼女たちに共通する台詞だ。
当然だ。
俺は、本気で惚れたことなど一度もない。愛した覚えも、愛された覚えもない。
血を分けた両親にさえ。
こと母親に関しては、快い感情はない。
女性という生き物を、俺が冷めた目でしか見られないのは、母親という人生最初に接触した異性の印象の悪さだろう。
世の中には、子供を愛せない親もいる。親を愛せない子供も然り。
己の見栄と金の為に生き、子供を装飾品の様に扱い病にかかって扱いに困れば捨てて行方をくらませそれっきり。
親としてどころか、女としても奔放過ぎた自分の母親の事は、その強烈な印象と顔以外覚えていない。
顔は自分の顔を見れば嫌でも思い出す。思い出して、女と言う生き物に対して不快感が増す。
だから、女に自らが手を出すなんて、愚かなことだと思っていた。
なのに…。
自分のマンションのリビングでテレビを見ながら、俺はわずかに痛む自分の左頬に手を伸ばした。
相手にその気がないと分かりながら、自分から手を出した愚かな結果が、赤い紅葉の痕を残す頬。
口の中を切らず、腫れなかったのがせめてもの救い。
明日までには何とか痕も消えるだろうが、残された余韻は癒えそうにない。
女に平手打ちをされたのは、演技も含め始めてのことだった。
「我ながら、莫迦な真似をした」
吉良にキスをしたそもそものきっかけは、苛立ちからだ。
俺に対して男としての認識をほとんど持たない吉良に、安心していると同時に、気に入らない感情があったのは事実。
事あるごとに、吉良の口から健斗の事が出てくるのも、不愉快な感じがした。
恋人でも妻でもない吉良が、健斗に恭順な態度をとるくせに、恋愛感情がないといった事も、胡散臭かった。
健斗が吉良に対して、単なる従業員以上の感情をもっていることは明白だが、健斗は俺以上に自分の腹の中を容易に見せたりはしない。
それも、健斗は彼女にかなり執心している。
でなければ、弁当のときのようなポッキーゲームもどきの真似など、あいつはしない。
あれは、俺に対する明らかな牽制だとわかった。
だからこそ、健斗が吉良に体よくかわされたのには、笑わされた。
結局の所、何が一番気に入らないのか、俺自身にも分からない。
モヤモヤとした苛立ちを、とりあえず吐き出したかった。
それに、もし俺が健斗と同じ事をしたら、吉良はどう切り返して来るのだろうかという、純粋な興味もあった。
あそこまで、ディープなものをするつもりだってなかった。
冗談だとからかうつもりだったのに、吉良の柔らかな唇に軽く触れれば、彼女は驚いた様に呆然と俺を見た。その無防備過ぎる表情に、悪戯心が疼いた。
男慣れしていないと一瞬で分かる彼女のその先の反応が見たくて、放心している吉良に再び唇を重ねていく。
重ねる度に深くなる口付けに惑っていく吉良の泣き出しそうな表情に、甘い誘惑を見て身体の奥底から震えが来た。
己の行動を制御できないほどの、衝動。
“吉良が欲しい”
そう強烈な欲望に溺れた。
片手で目を覆い、ソファに背を預けて天井を仰ぐ。
吉良があの時、抵抗して俺の頬を叩かなければ、あのまま彼女を抱いていた。
途切れ途切れに洩れる、喘ぎに似た苦しげな呼吸。
怒りが入り混じりながら、怯えたように潤んだ瞳。
どこか辛そうでいて官能的な艶のある表情。
初めて見る、吉良の『女』に、自分に湧き上がる強い欲求に体が従った。
「欲求不満か、俺…」
確かに、このところ禁欲生活だったが、それを無理に我慢した覚えはない。
体調の悪さから、その気が萎えていたし、元々、野獣のように女を襲う真似もしない。
あの時が、どうかしていたとしか思えない。
「…あの調子じゃ、次の診療には立ち会わないだろうな」
平手打ちをした後、激しい怒りを押し殺して冷静とも取れる態度で、俺を注意した吉良。
彼女は、謝罪を受け入れる余地など一抹もない冷徹な眼差しを残して逃げた。
当然だ。あれは、やった俺でさえやり過ぎだという自覚がある。
次に会うことは、ないだろう。
そのほうが、いい。
俺のためにも、彼女のためにも。
お読みいただき、ありがとうございます。多謝!!