20
§
「…お前、紫苑を引っ叩いたのはどういう了見だ」
院長は治療室の机に肘をつき、私を睨む。
私はうつむいたまま、返す言葉もなかった。
「仮にも患者に手を上げるとは、どういう神経してやがる」
「すみませんでした」
あの後、私は思いっきり榊紫苑に平手を打った。
言葉だけなら我慢できる。でも、キスまでされた。
冗談やからかいの類にしては悪趣味で、普通、相手は殴られても文句は言えない程度の。
私の最大の誤算は、私が勤務中で、相手は『患者』だった事。
いかなる事情であれ、『患者』に手を上げるのはご法度なのに。
榊紫苑は、左頬に大きな紅葉マークをつけて帰って行った。
「…クビにしてください」
院長からクビを言い渡されても仕方ないどころか、私が手をあげた相手は榊の名のつく人。私の首を切らないと、院長の立場さえ危うくなってしまう可能性がある。
院長が深いため息を漏らす。
「お前、そんなに紫苑が嫌いか?」
「……」
「おい、顔あげろ」
そっと顔を上げれば、院長は椅子に座れと手で指示する。
私が椅子に座れば、院長は眼鏡をはずして椅子に深く背を預ける。
「理由は何だ?お前が手を上げるなんざ、余程の事だろ」
「…榊さんは、何もおっしゃらなかったんですか?」
「紫苑はお前を咎めるなと言っただけだ。お前の事だから、あいつに手を挙げて俺に何か実害が及ぶとでも考えているだろうが、その点の心配はない」
さすがにばつが悪かったのか、榊紫苑は院長に何も言わなかったらしい。
「でも…」
「そもそも、全面的にあいつが悪い以外に、理由が浮かばん」
“え、断定ってどういうこと?…そんなに榊紫苑は問題児なの?”
ものすごく不安が心をよぎった瞬間、院長が机を人差し指でこつこつと叩く。
「キスでもされたか?…しかもディープなやつ」
「なっ!」
なんで分かったのだろう、この人。もしかして、見ていたの?
「あいつ、三日でさえ我慢できねぇのか…」
狼狽すれば、院長は呆れたようにため息をつくと、ぼそりと何かを呟くけど、声が小さ過ぎて聞きとれない。
「院長?」
「あ?まぁ、食われなくて良かったな?」
「ど、どういう意味ですかっ!?」
衝撃発言に、私は思わず椅子から立ち上がる。
「榊一族の男を前に、油断したお前も悪い」
油断も何も、キスをされた意味さえ、私には分からない。
もし分かる人がいるなら、ぜひ私に教えてほしい。
そもそも、榊紫苑が恋人でもない相手に、簡単にキスできるような節操なしだって知っていたら、絶対二人っきりになんてならなかった。
「ホント、榊一族はケダモノばっかりですね」
「さらっと毒を吐くな、吉良」
苦笑した院長は、頬杖をつきながら私をじっと見据えていた。
「紫苑の奴は、巧かったか?」
「…何がですか?」
「kiss」
発音良く放たれた言葉に、脳裏に強制的に排除していた榊紫苑との情景が思い出される。
刹那、自分の顔が一気に熱くなる。
思い出したが最後。羞恥心で心臓が止まりそう。
私は赤くなっているであろう顔を両手で隠して、身を屈めるように俯く。
「あ、あんなのもう、キスなんかじゃありませんっ!」
死んだって、巧かったなんて言えない。
あんな官能的な口づけをされたことなんて、人生初。
気持ち良すぎて抵抗する気さえしばらく失せてしまったなんて、絶対言えない。
嫌だったのに、そんな風に思った自分がすごく恥ずかしい。
「どれだけエロティックなやつをされたんだ、お前…」
「き、聞かないでください!恥ずかしすぎて、死にそうなんですから」
手を少し下ろし、顔を上げて院長を恨めしげに睨めば、院長はしかめっ面をしたまま、子供にするように、私の頭を優しく撫でる。
「犬に咬みつかれたと思って、さっさと忘れろ」
「大型犬に咬みつかれたら、一生物のトラウマです…」
「だからと言って、特別診療からお前を外さないぞ」
「…看護師なら、私以外にも結城さんや、松波さんが居るじゃないですか…」
相手が榊一族だから、患者として接し辛いのはあるだろうけど、点滴だけなら、私でなくてもかまわないはずなのに、院長は鋭く私を睨みつける。
「紫苑の相手はお前以外、無理だ」
「どうしてですか。注射嫌いの榊一族なだけじゃないですか」
「…お前みたいな鈍い女でなければ、勤まるか」
意味不明なことを言われ、私は思いっきり首をひねった。
鈍いって何ですか、鈍いって。
納得がいかないまま、話は院長に押し通された。
院長の言っていた意味を私が知ることになるのは、それからもっと先の事…。