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「院長と出会って八年経つけど…愛だの恋だのって、一度も感じたことないなぁ…」
独り言のように彼女の口から洩れた言葉は、いつもの丁寧な口調ではない。きっとこれが素の吉良の喋り方だろう。
「そんなに長い付き合いなのに、何もないの?」
傍に居る女に手を出さないなんて、正直、従兄弟の手癖からいって考えられない。
吉良は困った様に首を竦める。
「自分の部下に手を出す様な男の下でなんて働けないし」
そう断言した吉良は、あわてて口元を押える。
「すみません。患者さまに、失礼な言い方を…」
「あぁ、気にしないで。俺、堅苦しいのは嫌いだから」
「そういう訳にはいきません」
俺が榊姓だからなのか、吉良は終始言葉遣いが丁寧だ。
医療法人『聖心会』を運営する榊一族絡みの人間は、医療業界の人間にとっては、かなり怖い存在らしい。
『聖心会』というのは、日本でも五本の指に入る巨大総合病院『いずみ病院』が母体となり、福祉施設や老人保健施設などをいくつも抱える。
財界人や政界人も良く利用するため、太いパイプもいろいろあるようだ。
事実はどうか知らないが黒い噂もある。
敵に回すと、日本中の病院で雇ってもらえなくなる…とか。
それだけ、『聖心会』が医療業界で力を持っていると、いうことのようだけれど。
従兄弟の健斗が経営するこの榊クリニックも、無論『聖心会』の法人名が付いている。
その『聖心会』の創始者であり、一代で『聖心会』を大きくしたのが、榊虎之助。
従兄弟の健斗と俺の祖父に当たる人で、俺が五、六歳のころに、老衰で大往生ともいえる年齢で亡くなった。
医療系の財閥の出身者で、医者と政界者が多数を占めた榊の嫡子として生まれた祖父は、政界への道には進まず、医者となった。
脳外科医として世界にも名を馳せ、私財で『いずみ病院』を立ち上げ、後継者育成のために尽力し、優秀な医者を輩出したりもした、実はかなりすごい人らしい。
偉大な話をよく聞かされるが、俺の記憶にあるのは、ファンキーなじい様の姿だけ。
ボケたふりをして使用人や自分の子供に悪戯を仕掛けたり、子供みたいに何にでも興味を持って若者の遊びにも進んで参加する。
しかも、ものすごく負けず嫌いで、こと勝負事に関しては、子供相手にもいつだって真剣勝負の大人気ない年寄りだった。
とにかく好奇心と悪戯心の塊みたいな人で、俺はよく遊んでもらった記憶がある。
俺は、じい様が好きだった。兄弟や父親より誰より。
妾腹の子供として肩身の無い場に置かれた榊の家の中で、一番人間らしく俺を扱って、孫として目をかけて遊んでくれた唯一の人間。
未練のない榊の家で楽しかった思い出は、ほんの一年だけ過ごしたじい様との事だけ。
「…榊さん?」
不思議そうな顔で吉良にみられ、俺は我に返る。
「何か、面白い事でも?」
じい様のことを思い出しているうちに、自然と唇の端が緩んでいたらしい。
俺は表情を戻し、何でもない様に愛想笑いに切り替える。
「いや。貴女は堅苦しいなぁと、思って。もう少し、楽に話したらどう?」
「院長命令なので、仕事中はこの喋り方をやめるわけには…」
「健斗がどうしてそんな命令を?」
「このクリニックに来院される患者さまは、上品な方が多いので、あまり砕けた言葉を使うとクレームが来てしまうんです」
大方、健斗目当てのセレブな女たちだと、容易に想像がつく。
そして、健斗のそばで働いている女性職員に対して向けられる、嫉妬と羨望も。
「健斗がらみで、女性の患者から嫌がらせとかされたことないの?」
健斗の事だ。それなりにそう言った手合いの人間を対処できる人間を置いているとは思う。
だが、吉良を見て要る限り、失礼とは思うが、彼女が巧く嫉妬を含んだ攻撃をかわせるようなスキルを持っている様にはとても見えない。
「そんな真似を患者にさせるような抜かりが、俺にあるとでも言いたいのか、お前は」
処置室の入り口に視線を向けると、白衣姿の従兄弟が腕を組んで立っている。
切れ長の双眸が、眼鏡越しに不敵に笑っている。
唇の端には皮肉な笑みまで称える。
加虐心旺盛な極悪顔をしているはずなのに、持って生まれた美貌に色気と華を添えるから不思議だ。
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急に寒くなってきたので、皆様お風邪など召されませぬよう。